ベルナール・スティグレール

イメージ 1

たまたま書店の店頭で見つけた「愛するということ」が良かったので、
同じ作者ベルナール・スティグレールの著書をamazonでチェックして、
やはり今年翻訳出版された「現勢化 哲学という使命」を読んでみました。
そして僕は、ますますこの著者の思想が好きになってしまったのです。

この本は、と言うよりも、たぶんどの本を通しても、スティグレールは、
人間が哲学する理由から、人間が社会的存在であることの理由まで、
一貫して「自己を持つために他者を必要としている」視点から説明しています。
彼はフランス人ですから、フランス文化の影響を色濃く持つわけですが、
その文化なしでは自分足り得ない個人が、実はフランス文化を担っている。
自分なしでは社会は存在しないし、社会なしでは自分は存在しない、
そうした相互依存ゆえに、人はどのようにでも社会を作っていくのが基本です。

ところが現代社会では、この相互依存性はどこかへ見失われてしまい、
自分とは無関係に思われるグローバル商品が、価値の代弁をしてしまう。
そうすると人は、「われわれ」の主体を見失ってしまい、自分までも見失う。
自分とは関係ない誰かが作った価値観で生きる「私」は、常に社会から疎外され、
無力感や、自分が何者かわからない虚無感に襲われてしまうのです。
現代に生きる多くの人の不安は、こうした地平から沸き起こるものでしょう。

この現実を受け入れた上で、それではどうすれば「われわれ」を取り戻せるのか?
スティグレールは、私生活のごく秘められた部分から生成するものに注目します。
「人は私生活のごく秘められた部分において、どのように哲学者のなるのか」
これが、この本の原型となる講演に与えられた設問だったようですが、
彼はそこから、個人的なことは秘められているから個人を形成すると気付きます。
誰にも暴かれていないけれど確かにある何か、まだ見えないものが彼を形成する、
その欠落こそが、未だ未完の彼の全容をあらわすものなのです。

哲学的な内容そのものは、僕がこれ以上解説するよりも本を読んでいただきたい。
その上で僕が書いておきたいのは、スティグレール思想との出会いによって、
今まで「何故」と説明の付かなかった多くのことの位置が見えてきたことです。
二十数年前に社会の姿を見えるようにしてくれたイリイチやシュマッハーの理論は、
なぜ理解されるのに多くの年月を必要として、未だ一般に受け入れられないのか?
その原因は、明らかにグローバル経済に代表されるような価値観の硬直化なのに、
なぜ多くの人は、そうした欺瞞から抜け出せずに進んで奴隷になるのか?
そうした、僕にとっては謎だった「何故」の部分が見えてきたと言えるのです。

さらに現実社会での自分の生き方と照らし合わせた時に、避けて通れない壁として、
政治的な問題はなぜ起きるのか? どう関わればいいのか?が見えてきたのです。
人は自分を大切にを生きようとすれば、自然と哲学してしまうし、同時にまた、
社会との関わりを抜きにして、文化的に生きることは出来ない存在なのですが、
なぜそうなのか?という根元的な理由がわかってきたと言ってもいいでしょう。
もちろんスティグレールとの出会いによって僕が感じたことは個人的なことなので、
僕がやっと理解したことを、彼なしに知っていた人には無用の感動ですが、
未だ世界の正体が見えない人にとっては、一つのきっかけになりうるのです。

もっとも、フランスで哲学者として認められたスティグレールではあっても、
深い意味もなく「われわれ」と言って平気な日本人の社会で、彼の哲学は、
この先何十年も掛からないと、多くの人に受け入れられることは難しいでしょう。
それでも彼の、現勢化哲学と言える思想は、これからの社会を読み解く上で、
重要な「われわれの過去の遺産」となることは間違いないと思われるのです。

僕はこれからも、さらにスティグレールを読んでみるつもりです。


ベルナール・スティグレールの「現勢化 哲学という使命」は、(↓)こちらから。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794807422?ie=UTF8&tag=isobehon-22