「愛するということ」

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久しぶりに新鮮な、知的好奇心を活性化させられる本を読みました。
この本を読んだ高揚感は、池田晶子さんを知ったとき以来のものです。
ベルナール・スティグレールというフランスの哲学者が書いた本で、
今年7月末に新評論から出版された「愛するということ」。

たまたま郊外の書店で、なにげなく新刊本の帯を見ていたら、
~「生き残る」のではなく、人間らしく「存在」するために~
と書いてあったのに惹かれて手に取り、立ち読みしているうちに、
これこそ自分が知りたかったことだと興奮させられたのです。
しぶちんの僕にしては珍しく、車中に置いた商品券を取りにも行かず、
クレジットカードを使うのも忘れて、なけなしの現金で買いました。

多くの人が抱いている、自分が何者でもなくなっていく感覚を、
彼はまず「われわれ」と「私」が生成される場の喪失として捉えます。
こうした現状が生まれたのは、テレビによる「みんな」感覚からで、
差別化された商品化でニットなターゲットになっても同じことです。
人々は与えられた商品から何を買うかを選択するだけの消費者となり、
「われわれ」の歴史を自ら生成させることが出来ないことによって、
「私」自身が何者でもなくなる、非在化が進行していると言うのです。

この本の土台となった講演会は、2001年の911事件以降、
世界的な右翼の台頭や、パリ郊外市議会での銃の乱射事件などが、
「生きている実感」を無くした人の叫びなのだと分析するものでした。
この本を読むと、現在の政治が経済にしか向いていない事を指摘し、
人々を不安に陥れている問題の原因は、違うところにあるとわかります。
それはもっと人間の根元に関わることで、人間にとって大切な記憶が、
産業生産物に支配されて、自由のない閉塞感に陥ったと分析するのです。

ここで重要なのは、人間の持つ三種類の記憶に関する理解かもしれません。
一つは各個体が持っている記憶で、明確に自分で意識している記憶です。
二つ目はDNAが持っている種の記憶のような、意識化されない記憶です。
そして三つ目の記憶として、作られた過去の記憶を取り上げるのです。
これは「われわれは日本民族だ」と言うような、人工的な記憶ですが、
これがないと、将来の日本をどうするかが考えられなくなるのです。
すなわち、将来を考える根元となる、人工的に作られる記憶なのです。

これは単に国レベルでの話ではなくて、あらゆる人間活動に不可欠で、
この第三の記憶があって初めて「われわれ」は成り立つということです。
現代社会は、この記憶の生成をテレビを中心とした産業界に渡してしまい、
それによって、いくら商品を選択しても、自分が見えなくなっている。
こうした閉塞状況を抜け出すには、第三の記憶生成の過程そのものを、
自分たちの生活に取りもどす必要があると、主張しているように見えます。
この点に僕は深く共感すると共に、生き方の大切さを再確認するのです。

今、さらに詳しくこの本の内容を分析し、紹介するのは控えましょう。
この本の内容はとてもデリケートで、僕は読みとったつもりでいても、
それを他の人に伝えられるかどうかは、とても難しいことなのです。
したがってこの本の紹介としては、今一つのことだけを言っておきます。
それは、この本は間違いなく、現代の閉塞状況の原因を客観的に捉え、
それを克服する道があることを示している、貴重な一冊だと言うことです。


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