「フラット革命」

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最近ウィキペディア (Wikipedia)に関してのニュースで、
厚生労働省の職員が野党議員の記事を書き換えていた事が判明した!
と言う、お役所の世論操作を思わせる興味深いものがありました。
いわゆる阿部内閣が好きな「第三者機関による検討」と同じで、
年金問題を追求する野党議員を、厚生労働省が批判出来ないので、
ネットの匿名性を利用して、自分に都合のいい記事を書いていたのです。

呆れた話ではありますが、これが判明したのは新しい技術により、
ウィキペディアの書き換えをした者が何者か?ってことを、
過去に遡ってチェックすることが出来るようになったからでした。
しかしこうした判明は希なケースであり、今でもネットは匿名が基本です。
ただしこの匿名はかならずしも誰だかわからないのではなくて。
たとえば僕が本名とは別にイソップと名乗ってネット活動をしているように、
いわゆるハンドルネームのような通称によって、人格は存在しています。

現代は、良くも悪くもこうしたサイバー空間が人間生活に入り込んで、
この10年間に、実生活事態を大きく変化させてきたわけですが、
それではこの変化とはどのような社会を作るのか?は、よくわからない。
それをわかりやすく整理して、分析して見せたのがこの本でした。
佐々木俊尚さんが書かれた「フラット革命」で、講談社から出ています。

著者はまずマスメディアとの比較を通して、問題点を整理します。
(1)匿名言論の出現。(2)取材の可視化。(3)ブログ論断の出現。
これは今でも、マスコミがネット記事を批判する理由になってますが、
ただ批判するのではなく、実例を出して何が起きているのかを分析し、
そこに「公共性を担保しているのは何か?」と言う課題に突き当たるのです。
10年以上前であれば、行政とマスコミの補完関係によって、
ある程度は、誰でもが納得する公共性が保たれていたわけですが、
それは同時に、特定の権威に縛られる不自由さも持っていたわけです。

ネット社会は、特定の権威だけではなく、誰でも情報発信するので、
人々の自由度はかつてないほど大幅に膨らんだのですが、その一方で、
公共性が失われて、何が起きるかわからない社会になろうとしているのか?
これがこの本の主題になってくるわけですが、この本が面白いのは、
単なる抽象的な概念ではなく、この数年に実際に起きた事例を取り上げて、
その分析の中で、具体的な問題点や展望まで触れているところでしょう。

個々の人間に関して言えば、人間は生き延びて何を求めるのか?と問い、
自分の位置を確認するポートフォリオを求めて彷徨っている、と分析する。
大昔から問われている「自分とは何か?」の現代版なのかもしれませんが、
その何か?を、特定の肩書きなどには求めないで、共有する場に求める。
本当は納得しないままに、空気によって絶対正義が生まれる危険を排し、
違う意見のお互いが認めあって共生するところに、新しい価値観を求める。
ここに新しい公共性があるとするのが、著者の分析結果かもしれません。

佐々木俊尚さんの「フラット革命」は(↓)こちらから。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062136597?ie=UTF8&tag=isobehon-22