人恋しさと煩わしさ

和語として書けば「ひとこふしさ」と「わずらふしさ」でしょうか。
人は、産まれて生きる中で、自分以外の他者を必要としてしまう。
「人請ふ視差」と「煩ひ患ふ示唆」の狭間で生きているので、
この距離の取り方が、生き方を決める上で重要な要素になるようです。

人を請ふ、恋ふ、考、公、好、光、功、耕、幸、効、皇の流れさえ、
和がずれる、煩ふ、患ふから、わずらはしく思えてきてしまう。
視点を変えれば、如何に好もしいものも煩わしいものでもあるわけで、
それをどのように調和していくかが、生き方のコツかもしれないのです。

たとえば好きになった女性を恋しく思うときは、その人のためには、
どんな面倒もいとわずに、少しでも相手を喜ばせたいわけですが、
ちょっと情熱が冷めると、同じことが耐えられないほど煩わしくなる。
だからといって、嫌いになったわけではないのでしょうけどね・・・
すべてはうつろい、決して同じではいられないってことでしょうか。

煩わしさは患うことでもあるでしょうから、無理もよくないわけで、
少し距離を置いた方が、恋しさも煩わしさも同じ方向に見えたりする?
だけどそんな距離の取り方も、命が遠くなるようでつまらないでしょう。
むしろ僕なら、煩わしさを知って忘れて求める気持ちを大切にしたい。
理性よりも五感や五体が大切だと、改めて思う次第なんですよ。

こんなことを考えるのは、僕はもう若くないってことかも知れなくて、
20代、30代の時にはひたすら求める心にしたがっていた気もします。
人を恋う、好きになる気持ちが、どんな煩わしさも押しのけていた、
そんな若さが、いつのまにか遠くなっているのはたしかでしょう。

だけどね、今にして考えても、人恋しさより大切なものは何もない。
生きるとは、人間関係を味わうことで、その他のことはただの背景だと、
そうわかってしまったから、今の自分の生き方が定まったとも言える。
煩わしいまでに人恋しく生きていく、ほかに何が喜びでしょうか?

とは言え僕は、人を恋しく思いながらも、煩わしさからは逃げてきた。
自由を求めたこの現実も、またありのままに受け止めるしかないのです。
だから僕は、いくつになっても「人恋しさ」と「煩わしさ」が錯綜する、
ものわかりが悪い、あつかいにくい若僧でしかないのかもしれない・・・