となりの異界

生き物の世界は、多様化することで豊かになりますが、
人間もその例に漏れず、個性こそが豊かさの証でしょう。
自分の知らない、あるいは自分とは違う感性に出会うとき、
様々な刺激を受けて、自分の内部までが広がっていく。

知らないことを少しずつ学んでいくのは、社会的にも必要で、
大勢が一つの社会で暮らしていくために最低限必要なこと、
公共のルールなどは、家庭、町内、学校などが子供に教えます。
同時にまた、異質なものを認め合う訓練を積むことも大切で、
この異質な世界の、もっとも身近で典型的なものが異性です。

男と女は、社会的権利に不平等があってはいけませんが、
肉体的にも精神的にも、およそ同性の類推を超えた存在です。
なかなか、理解したつもりでも、出来ていないことが多い。
それは生まれたときから、体の構造も違っているわけですし、
もっとも人格形成に重要な思春期に感じることも違うのだから、
同じであるはずがない、と肝に銘じておくべきでしょう。

となりに座って仲良く話をしながら、食事をしていても、
何か違う、異界の人と一緒にいるくらいの気持ちがいいかも。
それを新鮮さと受け止めて、その違いを楽しむことが出来れば、
より豊かなコミュニケーションが味わえるに違いありません。
同性では気心が知れている気安さはあっても刺激は少ない。
ただ異性であるだけで、別世界を感じる不思議さは貴重です。

しかもここで価値基準となるのは、好き嫌いとか魅力とかで、
美しさとか誠実さとか、果ては我が儘や反社会性までが、
合理的な理由もないままに、大事に思われたりするのです。
これほどわかりやすく多様性を教えてくれるものはないのかも。
一方では、杓子定規で合理的な社会的価値基準を知りながら、
他方で、非合理的な反社会的なものにまで魅力を感じてしまう。

それはもしかすると、多様な価値観で多くの人が共存するのに、
最低限守るべき共有のルールを持って社会規範としながらも、
その規範を超える人間の多様性とのせめぎ合いの姿かも知れない。
次々とルールを決めながら、あるときルールは破られてしまう、
社会の姿とは、男と女の関係の姿そのものなのかも知れない。
性交渉を持つことを「犯す」と表現するのも、そうしたことです。

命のダイナミズムと社会のダイナミズムは、あるいは同じもので、
正しいことだけをやっていては何も生まれない、とする知恵か?
犯すことは「悪」ではなく、常態を超える「罪」と捉えるなら、
社会は様々な罪によって、再生し続けているのかも知れない。
どんな穏やかな恋愛も、あるとき犯すことで再生が始まるように、
人間は杓子定規に正しい存在ではないからおもしろいのです。

誠実に愛をもって罪を犯すとき、新しい命が生まれてくる。
いえいえ、好奇心から犯されて生まれてくる命だってあるはずで、
それが愛を生みだす不思議さえあると、多くの人が知っている。
さらにこの不合理な世界をも、異界として受け入れてしまえば、
世界は、愛するより他に相対しようがないのかも知れません。

さりげなく近くに存在する異界の人と、どう付き合えるか?
個々人にとっての世界の広さは、そこから始まるのです。