「下流志向」

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フランス現代思想が専門で、神戸女学院大学教授の内田樹さんの著書、
下流志向」を、友人の薦めもあって読んでみました。
この副題がたくさんあって、「学ばない子どもたち、働かない若者たち」
「リスク社会に生みだされる大量の弱者たち」「自分探しの果てに」
学力低下ニート増加の深層!」「日本社会に未来はあるか!?」
こんなに書かれてしまったのは著者の責任ではない、出版社の所為でしょう。
だけど図らずも、この本の内容の焦点のなさが現れている気がしました。

最初に、この本が書かれる動機になったと思われる「学びからの逃走」は、
その延長としての「労働からの逃走」を含め、「等価交換」による理由付けは、
とても良くわかるし、優れた手掛かりであることは確かだと思います。
子供の成長過程で最初の社会参加が、消費者であることによって、
まず「お金さえ持っていれば心地よく扱われる自分」を知ってしまう。
そこには本人の努力や、その人がどんな人間であるかなど無関係に、
さらにはどんな手段で手に入れたお金かさえ問われずにお客さんになれる。
こうして最初から、等価交換する消費者としての自己認識をしてしまった人は、
本来等価交換できない「時間」にまつわる教育や人間形成まで思いが至らず、
自らが高額商品になるためには不可欠の付加価値を育てられないために、
市場原理で「売れない商品」に成り下がっていく様子がよくわかる。

ここまではとても優れた視点で話が進んでいると思うのですが、
その後この本の内容は、同じ視点の説明を様々な角度から説明するばかりで、
この事態の意味するところ、何が問題で、どうすればいいかが書かれていない。
著者はもともと、そうした展望など書くつもりはなかったのでしょうが、
実はそうした展望のなさが、客観性をも欠如させているのではないか?
と思わせるほど、第二章ではさらに些細な社会現象の分析に進みながら、
リスクヘッジや構造的弱者の説明をするばかりで、それ以上のものが見えない。
普通何かが正しく理解されるためには、その外側が登場することによって、
客観的な視点がもたらされて始めて、今まで見えなかった姿が見える。
ところがこの本では、どこまで行っても現状分析を続けるばかりで、
その現状をもたらしているものを、外側から照らす視点が見えないのです。

働かない若者を「労働からの逃走」として捉えるところへ進んでも、
論点は「学びからの逃走」と同じなので、新しい視点は見えてきません。
それでも「子供の頃から経済合理性に基づいて価値判断してきた人が、
その結果、無業者であることを選ぶ彼らの首尾一貫性は、経済合理性を
論拠としては突き崩すことが出来ない」とも書いておられる。
内田さんは、経済合理性では突き崩せないことを経済合理性で書いている。
これがどうしても、この本に焦点のなさをもたらしているように見えるのです。
日本型ニートの説明も、転職をくり返すパターンも、交換と贈与も、
経済的合理性だけでは説明できない価値体系があることを言いながら、
それが何かを見通せるほどには示し得ていないのが、なんとも苦しいのです。

なぜ僕がこのように、この本を批判的に見てしまうかと言えば、
実社会には以前から経済的合理性に疑問を持って行動している人がいるからで、
そのためにコミュニティを作った人も大勢いるし、学校を否定する人もいる。
僕自身もなるべく経済的合理性から逃れたいと思って、自給自足を目指している。
あるいは僕がフィロソフィアでお世話になった千葉大の小林教授などは、
これからの社会には「霊性」が重要な要素になると見なしておられる。
すなわち、せっかく示されている「経済的合理性からの逃走」はどうなのか?
この一点に深く関心を持ちながら読み終えた僕にしてみれば、最後にようやく、
「触れることのできなかった論点」として、21世紀は全世界的な傾向として、
「間違いなくきわめて宗教的な時代になる」とまで書いているのです。
おいおい、読みたかったのはそれだよ!ってところでこの本は終わるのです。

「経済的合理性」の行き着くところ「おまえは誰であってもよい」であり、
その最後には「おまえは存在する必要がない」となってしまうからこそ、
僕らは人間性を求めてお金に疑問を持ち、自立した人間になろうとあがくのです。
それを最初に社会学として捉えたのが、イリイチだったのではないかと思うのです。

下流志向」の詳細は(↓)こちらからどうぞ。
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