「わたしたちに許された特別な時間の終わり」

イメージ 1

久しぶりに、人から勧められて読んだ文学作品です。
「三月の5日間」と「わたしの場所の複数」の二作品で、
本の題名は「わたしたちに許された特別な時間の終わり」。
正直のところ、驚くような内容や新鮮味は感じませんでした。
初出が「新潮」ですから、文学性を認められたのでしょう。
ですが僕にとっては、これを読んだことで感じるものは無く、
むしろ読んでいる自分にイライラ感を覚えた、それが何か?
ってところが、あえて言えば気になるところでした。

両作品は書き方こそ違いますが、男と女の違う視点を通して、
同じ時代に同じものを前にしながら違う世界を生きている、
そんなところに、何か引っかかりを見せようとしているのか?
しかしながら、僕にとっては読みやすくもない文章で、
主人公にも共感するものを感じないし、まず興味が引かれない。
よく知っている渋谷の風景も、そのまま描かれているだけだし、
ラブホの様子も個性は感じないし、引っかかるものがない。

初対面の女と渋谷のラブホにしけ込んで四泊五日とは、
お互いによほど飢えていたか、何かを感じるのに鈍感なのか?
盛り上がりもない様子だから、ご苦労さんな事だと思う。
アメリカのイラク攻撃の日に合わせてあるけど、この内容なら、
どこでどう何故この日なのかも、僕には伝わってこないのです。
そもそも、セックスが止められないほどの何か、が見えない。
ゲロを吐きたくなるような、切実さでもあればいいのですが、
表現も内容も軽すぎて、読むのが上の空になってしまうのです。

こうした軽滑りな内容こそが、この本の意味なのだとすれば、
ああそうですか、ご苦労様、僕はもういいです、と言いたくなる。
なんだこの伝わらなさは?と思ったときに、少しだけ感じる、
これが現代だと、作者は表現したかったのかも知れない、と。
それぞれの登場人物は、いちおう話はするしセックスはする。
だけど根本的に、コミュニケーションが出来ていない気がする。
それがゆえに、いくらセックスをしても、何も生まれてはこない。
吐き気がするまで止められないセックスの切実さがない。

読み終わって、読んでいたときのイライラは茫漠とした不安になる。
合理的に細分化された、高度な役割分担の世界で生きることは、
どんな言葉も人間同士の絆ではなく、役割をこなすソフトになる。
「わたしは」「わたしは」と自己弁護だけしながら自己を失い、
個人では手の届かない巨大なシステムの中で数でしかない自分。
作品のどこにもそんなことは書いてないのかも知れないのに、
読み終わってイヤになる、現代の不毛を、この作品は伝えていた。

「わたしたちに許された特別な時間の終わり」は(↓)こちらから。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4103040513?ie=UTF8&tag=isobehon-22