志貴野高校の授業

高岡市が主催する、「高校生と学ぶ特別講座」で、
去年の秋から「身近な古典文学」を受講しています。
去年は今昔物語を中心に、男と女の話が中心で、
年が明けた今日は、今年最初の授業だったのですが、
御伽草子から、一寸法師の話を聞いてきました。

この授業は、進学を希望しない生徒のものなので、
受験とは関係なく、古典の世界に親しもうとされている。
担当のM先生は、以前は高岡高校で古典を教えておられて、
当時の習性からか、受験でのポイントが口をついて出る。
だけど本来は、自由な古典研究が好きな人のようで、
授業の教材として、毎回いろんなことを調べてこられる。

鹿の声が大切だと思えば、声をテープで聞かせてくれるし、
牛車や当時の衣装などは人形を用意してみせてくれる。
さらには古典独特のいくつもの意味解釈も教えてくれる。
高校でこれだけ教えてもらえれば、ありがたい話です。
だけど少々、これでいいのかなあ?と思わないでもない。
せっかく少人数のクラスなのに、話が一方的なのです。

授業なんだから、あたりまえといえばあたりまえでしょうか?
生徒は先生の言うことを聞いて、教えられた通りに覚えていく。
いや実は、先生は少しでも生徒に考えさせようとして、
プリントに問題を作って順番に答えさせたりもするのですが、
あまりコミュニケーションが成り立っていないように見える。
どうやらここに、その後の市民活動の有り様も見えている。

今のところ市民活動では、お役所の人が先生の立場にあって、
活動はお役所の意向に添って行われることを基本に考えている。
だから「市民参加」の名前でさえお役所がすべてを取り仕切る。
そんなお役所の市民参加でヤラセが起きるのは必然でしょう。
どうしてもっと、対等にコミュニケーションできないのでしょうか?

そこで生徒の質問に答えられてこそ、先生と呼ぶに相応しい。
そこで市民の疑問に答えられてこそ、行政と呼ぶに相応しかろう。