「麦の穂をゆらす風」

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今年のカンヌ映画祭パルムドールを受賞した映画、
ケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」を見ました。
むかしブラッド・ピットがIRAのメンバーを演じた映画、
「デビル」を見た頃には、まだIRAがよくわからなかった。
(知っている)けど(わからない)状態だったのですが、
今回の映画を見て、少しわかった気がしています。

そもそもIRAは、なぜ王国からの独立に執着するのか?
それは歴史的に見て、非情な暴力による抑圧があってのことで、
開放闘争が、やがて一つの成果と共に内部分裂していく様子は、
世界中のどの紛争にも当てはまる、武力闘争の限界を示している。
見終わって、距離を置いて言えばそのように言えるけれど、
むしろこの映画の価値は、現場においてそうならざるを得ない、
生身の人間の押し殺した慟哭が伝わってくるところにあるでしょう。

アイルランドはイギリスであってイギリスではない、
民族的にはアングロサクソンに追われたケルト文化の人たちで、
誰を抑圧することなく、自然と共に生きてきた人たちでした。
その文化的な優秀さは、美術、文学、音楽の世界において、
今でも多くの人を排出し続けていることからもよくわかるのです。
さらにこのケルト文化は、表立って世界侵略などはしないでも、
世界中に多くの移民(エグザイル)を持つことによって、
常に世界の言論に影響を与え続けているのも大きな特徴です。

この映画は、そうしたことを何か言っているわけではない。
それでも、優れた映画が常に多くの暗示を持つように、
この映画に映し出される、淡々とした選択の切なさによって、
僕は今までに知っていたアイルランドの断片的な知識を繋ぎ合わせ、
この登場人物の心を、少しでも理解したい思いに迫られるのです。

ロンドンへ行って医師になることを夢見ていたデミアンは、
旅立ちの直前に、友人が理不尽に殺されていくところに立ち会い、
それを押して汽車に乗ろうとして、英国軍の横暴な振る舞いを見る。
しかし抵抗する勇気ある人たちに出会うことで、彼は義勇兵になる。
その活動はやがて実を結んで、大きな抵抗勢力になるのですが、
その過程では、犠牲者は出るし、裏切り者の粛正も行われていく。
デミアンは仲間の指導者として、裏切った友人を自らの銃で撃つ。
こうした活動での蓄積が、彼を引き返せないところに追い込んでいく。

暴力によって追い込まれた人々は、やむにやまれずに銃を持つ。
愛する人たちを守るために始まった戦いは、何故かやがて、
どうしても、愛するもの同士で殺し合わなくてはならなくなる。
そこには「正義」と「悪魔」などといった幼稚な言い回しはない。
人を殺してはいけない、それなら殺されるままに死んでいけばいいのか?
そうでないとすれば、殺される前に相手を殺せばいいことなのか?
この映画が問い掛けるものは、簡単に答えられることではなさそうです。