「男女の怪」

養老孟司さんと阿川佐和子さんの書き下ろし対談本で、
「男女の怪」と書いて「オス・メスのカイ」と読みます。
題名から見て、恋愛話でも書いてあるのかと思ったら、
ほとんどまったくそんな内容の本ではありません。
いや、たしかに目次を見ているかぎりでは、
恋愛、結婚、男、女、って言葉が並んでいるのに、
養老さんは阿川さんの追撃を交わして本題を外れていく。
おっと、僕が勝手にそう読んだだけかもしれませんけどね。

それでも読んでいると面白い話が次々に出てきます。
阿川さんは本題に沿って話題を進めようとされるのですが、
養老さんは独特の言い回しで、そこから連想される話をされる。
だから、脈絡があるのかないのかよくわからないけど、
印象に残った発言内容をいくつか紹介しておきましょう。

(1)「国語で反対語を教えるのはよくないね。
  反対語と思われているのは常に補完語ですよ。」
例えば内と外や男と女を反対語と考えれば対立的になるけど、
男と女を合わせて人間と考えれば、これは補完語となって、
対立ではなく、お互いに補い合うものとして捉えられるってこと。

(2)「言葉も遺伝子も情報なんです。ところが、
  人間は遺伝子じゃない、情報じゃない、言葉でもない。」
これは「言葉の力」での松永澄夫さんの説明にも通じます。
主語(人間)は、述語(遺伝子)によっては規定され尽くさない。
遺伝子は何かを表現しても、主語を補う物でしかないってこと。

(3)「自民党は思想によいところがあれば、
  党を通して実現する装置ですから、自民党に思想はない。」
思想は思想として純粋であることに価値があるとする、
司馬遼太郎三島由紀夫事件に対する感想を持ち出しながら、
日本人は特定の思想を持たないから優れているのだと説明される。

(4)「体験とか経験とか感覚って常に個々でしょう。
  それを同じ物として普遍化していくのが人間なんです。」
都会はその普遍化したもので成り立っているから感性が衰える。
抽象化されたものばかりで成り立つ教育では、人間性が衰えて、
すべての個々が違うという実感や創造性が失われてしまう。

このように読み解いていくと、何の本だかわからない。
だけどこれが養老ワールドの姿なんだと気付くわけです。
何か一つのテーマに沿って自由に話すなんてことが言葉の裏腹で、
何を話すときにも一つの世界を表現し続ける以外にはありえない。
いや、そうしてみると確かにこの本は、男と女の本でもある・・・
本そのものよりも、内容の構造が面白いのかもしれない。