「言葉の力」

イメージ 1

正確には、「音の経験・言葉の力 第Ⅰ部」という本で、
なにげなく読み始めたら、長く読み終わらない本になった。
読んでいるうちに、次々とイメージが膨らみ始めて、
ところによっては、一日で1ページが読み終わらないのだ。

たとえば、「私は嘘つきだ。」と言ったとしよう。
嘘つきが「私は嘘つきだ」と言うのは嘘だから、
この人は、嘘つきじゃないってことになるのか?
すると嘘つきじゃない人が「嘘つきだ」と言うのだから、
この人は本当に嘘つきなのか?わからなくなる?

いやいや誤魔化されてはいけないのであって、
僕らは日常の会話の中ではちゃんと判断できている。
様々な事情と心理が関わって、どちらの場合もありうると。
そのことを著者の松永澄夫さんはこう表現している。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 主語は、述部が与えてくれる内容を受け取るものでありながら、いつも
その内容を越えるはずのものである、という資格でみずからを提示する。
その強さは、述語が己に与える内容を自分の小さな部分にのみ関わること
として局在化するほどのものである。
 主語である「私」の中身は、述部の「嘘つきである」というものによって
規定され尽くすことはない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このように厳密に考えを進めた上で、
言葉や文章が指し示すものは星雲のようなものだと指摘する。

主語になるものは述部を持つことによって表現されるけれど、
その表現は、けっして主語を限定するものではなく、
むしろ主語を豊かにする「内容」となっていく。
これは言葉の説明でありながら、人生そのものを語ってもいる。
考えてみれば、人は言葉なしでは人として存在できない。

ひとりの私は、表現されることによってそのものになるけど、
そのもので終わるわけではなくて、つねにそれ以上のものでもある。
小説の中で、背の高い赤い髪の男と表現されたからと言って、
この記述はこの場合そう表現されただけであって、主語を限定はしない。
したがって、こころ優しい人かもしれないし、太っているかもしれない。
いやそれどころか、実際は黒い髪なのにここでは光りの加減で赤く見えた、
なんてことだってありえるのが私の本当の姿だったりする。

表現されないものは存在しないし、表現されれば存在する世界。
しかしその表現は、けっして主語を表現し尽くすことはない。
とくべつフィクションの話をしているわけではなくて、
現実の人間世界がそのようなものだと認識できるってことだ。
僕はこの本を2週間掛かって読み終えて、
もう一度小説を書きたくなってきた。