「ディラックの海辺にて」

ちょうど30年前の事になる。
まだ学生だった僕は初めて長編小説を書いた。
ディラックの海辺にて」と題した小説は、
書き上げた後に僕は渡米してしまい、
5年後に一冊の本として仕上がった。

ところが販売方法を巡ってトラブってしまい、
どこの販売ルートにも乗らずに終わった。
当時は東販か日販のどちらかに乗せないと、
作った本は書店に配本されなかったのだ。
しかも僕はまたそのまま旅に出てしまい、
本を制作してくれた会社に多大な迷惑を掛けた。

それでもこの小説は多くの人から称賛を受けて、
当時吉祥寺で文学の指導をしていた先生から、
本気で芥川賞への推薦まで受けている。
この小説によって旅の資金を得たり、
見知らぬ人から便りをもらったりもした。
だけど過去の小説だと思っていた。

ところがこのブログのゲストブックに、
ディラックの海辺にて」を読んだ人が、
最近の小説との比較を書き込んでくれた。
あの小説を読んで覚えてくれていた人がいる。
そう思うとなにか不思議な気持ちになる。
この25年とは何だったのかと、
あらためて年月の持つ意味を考える。

そして久しぶりにこの本を引っ張り出して、
適当に開いたところを読んでいたら、
当時の感覚がよみがえってきた。
そこには今と本質の変わらない自分がいて、
当時の条件下で真剣にものごとを考えている。
その結果として僕は就職もしないで、
10年以上に渡る長い旅を続けたのだ。

そんな自分を振り返ってみると、
なにか納得のいく人生を歩んできた気がする。
自分のことがあらためて好きになったりする。
不器用にしか生きられなかったけど、
自分の考えた通りに道を選んで生きてきた。
この小説は間違いなく僕の原点であり、
今の僕はここから始まったのだと思う。