「蜩ノ記」

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葉室麟の作品で、2010年11月から翌年8月まで、
「小説NON」に掲載された後、直木賞を受賞した「秋蜩」が原作。
2012年6月には、NHK-FMラジオ「青春アドベンチャー」にて、
ラジオドラマ化され、2014年に映画として公開されています。
青木崇高、と言った蒼々たるメンバーで、数多くの賞も受賞している。

既に多くの評が書かれているでしょうし、今更何を書くのか、
と思われるかもしれませんが、やっぱり書いておきたいことがある。
それはこの映画を見た後から、徐々に考えるようになったことで、
日本人の価値観とは、基本的にどこから来ているのだろうと言うこと。
これは百年前の、あるいはそれまでの日本の価値観を考えることで、
僕の母が言っていた、家を守ろうとする価値観を考えることでもある。

多くの人が言う通り、この作品は何よりも原作が良くできているので、
映画化においては、この原作を如何に表現するかが重要だったと思われる。
さらに言えば、この作品で描かれているような人間の生き方は、
林真理子さんが表現したように、「清廉すぎる」と言うしかありません。
江戸時代が求めた封建制度は、いったい何を目指していたのかと考えれば、
なるほどこうした話しの中に、一つの理想型が見えてきたりはします。

だけどこの作品では、あまりにも理想型を求める余り破綻が貧相で、
生身の人間を描いたとすれば、さほど魅力的とは思われなかったりします。
僕の母の時代までは、つまり百年前までの日本社会における価値観では、
忠義はむしろ儀礼的なものであって、本質は生活空間としての家を守ること、
親戚縁者による家制度を守ることが、何よりも大切だったと思われます。
そのためには血のつながりよりも、戸籍による縁を大切にしている。

この作品に登場する家族や藩士は、ひどく個人が優先されていて、
友情を重んじる息子の軽率とも言える行動を、人間として共感させている。
それを主人公も後押しして、人間の生き方にさえ繋げてくるのですが、
果たしてこの時代に、個人の正義がどれほど生き方に関わったものかどうか。
羽根藩の重税の話しや、家譜の編纂に繋がって見えてくる藩主の真実は、
それ自体が多くのことを考えさせてくれるが、物語はそうではない。

ひたすら形而上的な理想型が炙り出されて、共感を誘われながらも、
僕にはきれい事過ぎて、時間が経つに添って違和感さえ感じてきたのです。
視覚的に訴えてくる、役所広司演じる戸田秋谷と、岡田准一演じる檀野庄三郎、
その家族や友人の清廉さに面と向かうと、何か違うと感じるのは何故なのか。
多くの日本人の心を掴む作品であればこそ、感じる違和感を零さずに、
自分は何ものなのかを改めて考える、きっかけとなる作品だったのです。