言葉未満で世界を見れば・・・

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量の過剰による意味の変容とか、
パステージの違いによる質の変化とか、
20世紀後半における、智の世界の進歩は、
僕らの立ち位置を、宇宙空間にまで広げました。
人間は、わざわざ大がかりな装置を使って、
具体的に行かなくても、宇宙空間に立てるのです。

僕らはどこから来て、何処へ向かうのか?
と言った永遠の問いかけは、確かに本質的ですが、
それは同時に、今自分がどこにいるかを知ることです。
言葉を使って考える宿命から、不完全な認識しか得られない、
と思いがちな僕らですが、立ち位置を考えるときに、
言葉未満の世界を思い出せば、少し事情が変ってきます。

この言葉未満の世界は、ほとんど誰でもが経験している世界で、
子育てにおける格言を思い出せば、わかりやすいかも知れません。
3つ心、6つで躾、9つ言葉、12で文章と言うものです。
僕は今5歳の姫の子育てをしていますが、この時期に必要なのは、
日常生活習慣を躾けること、と言うことになるでしょうか。
しかし親の思うようには言うことを聞かず、これが難しい。

言葉で「片付けなさい」と言っても、通じないばかりか、
逆に「あれして欲しい」と言って、親をイラつかせるのがうまい。
同じ言葉を使っているはずなのに、思いが通じないのは何故か、
冷静に考えればわかることで、5歳の子は言葉未満の世界にいる。
9つの頃までに、ようやく大人と同じ言葉がわかるわけで、
それ以前は音声的に同じでも、違うレベルの世界にいるのです。

だけどこの通じなさは、根気よく続けることで克服され、
やがて同じように言葉が使えるから、言葉未満の世界と言える。
さらに興味深いのは、言葉未満の世界でも通じるものがあり、
通じるものがあるから、やがて言葉も通じるようになるということ。
この通じるものはどこから来るのかと言えば、人間としての血と、
やはり人間としての五感に他ならない、と考えられるのです。

4歳5歳6歳の子を育てて、しつけようとするならば、
言葉は目標でこそあっても、手段にはならないと言うこと。
人間としての血と五感を信じて、繰り返し共感を誘うことから、
相手と同じステージに立つことが、根源的に必須なのです。
時間と同じように、量や立ち位置によってさえ違ってしまう世界で、
繰り返し触れあうことが、同じ宇宙空間にいることをわからせる。

まだ言葉にならない世界で、血と五感によって通じるものが、
やがて言葉として成り立つのは、もっと先の事なのです。
5歳の子どもが、言うことを聞かないのは当たりまえのことで、
親は根気よく相手をして、一緒になって言葉未満の世界で遊べば良い。
その繰り返しの中から絆が育ち、やがて言葉が生まれるのだから、
言うことを聞く聞かないは、さらにその後のことでしかないのです。

最近は子どもを保育園に入れてまで、働くのが当たり前ですが、
お金は人間生活の要素の一部でしかない、と思っている僕から見ると、
この言葉未満の混沌とした世界を、一緒に過ごさないなんて、
人生の大きな喜びの一つを、失っていることのように思います。
言葉になって固まった智ではない、もっと混沌とした共感の世界で、
言葉未満の世界を知ることで、立ち位置が見えてきたりするのです。

どんなに大金を積もうと、どんな学校へ行こうとわからない、
言葉未満の貴重な世界を大切にすれば、見えてくるものがある。
それこそ人類の叡智が求めてきた、「人間とは何か」の答えでもあり、
僕らは人間となったときから、繰り返し答えを聞いてきたのです。
私はいつだってここにしかいないし、そのここを教えてくれるのは、
言葉未満の世界であって、すべてはここから見えると言うことです。