南山見ふるさと探訪
井波アスモの2階会議室で、井波を知る勉強会があり、
院瀬見の松田博志さんが、貴重なお話をしてくださいました。
「南山見のふるさと探訪」と題されたお話の中で、
南北朝時代に始まる、このあたりの開祖と信仰のお話です。
薬師谷より出土した「独鈷石」は、何を意味するのか、
この検証に始まり、白山信仰の開祖泰澄の話となりました。
白山連山を回った泰澄が、最後に訪れたのが八乙女山で、
ここに風神堂を定めた後に、ふもとで止観寺を建立しています。
719年に創建されたとありますが、この翌年には安居寺が、
インドの善無畏三蔵僧によって、建立されているのです。
調べてみるとこの時代には、天台宗のお寺が次々に建立され、
これらの寺は、やがて南朝との関係を深めていきます。
松田さんのお話は興味深く、これらのお寺のほとんどは、
地図で見るとすべて、八乙女山の風神堂から放射状に散在する。
風神堂から8本の線を引くと、その線上にあるというのです。
段乗寺があって、ここから砺波平野一帯が見渡せます。
この段乗時は遺跡として残っており、馬かけ場も現存する。
何年か前のお祭りの時には、僕もこの場所を見たことがあり、
この場所は馬を繋いだ馬掛け場か、走らせる馬駆け場かわからない、
と聞きましたが、杉木立の様子から「馬駆け場」と見えました。
ここにあった段乗時は、別名横山城とも言われるお城で、
下田頼康は少将として君臨し、宗良親王と共に権勢を誇って、
京都に兵を挙げることまで、考えていたと言われています。
この土地は院宣見の名前がついた、と考えられていました。
綽如上人は井波に瑞泉寺を建立し、風神堂を再建されています。
そして越中砺波を最後の拠点とした、吉野朝は亡び、
南北朝は統一されて、砺波平野は静かな穀倉地となりました。
この地方にどうして、多くの天台宗のお寺があったのか、
それらが次々に浄土真宗になったのは、どうしてだったのか?
以前から漠然と、こうした疑問は持っていたのですが、
今回の勉強会で、問わずと知れる結果となりました。
白山の繋がりで八乙女山が開かれ、止観寺が出来たことで、
この砺波平野は、真宗王国と呼ばれるほどの地域となりました。
ちなみに八乙女山の名の由来は、この地に吹く強い南風を、
風神堂で諫めるに当たって、8人の巫女舞いをしたことから、
八乙女山という名前になった、と考えられているようです。
自分が住む土地の一千年前を考える、貴重な時間でした。