カルターニャからの手紙

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先日カタルーニャ州の独立騒動を記事にしましたら、実際にバルセロナ近郊に住む友人から、
僕の知らないカタルーニャの近況や、そこに至った歴史について手紙をもらいました。
少し長いのですが、短く纏めるには知らないことが多いので、
個人的な内容を省き、手紙の全文をそのまま掲載しておきます。

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101日の住民投票から約1ヶ月が過ぎました。バルセロナ市街では、この住民投票を「違法」としたスペイン中央政府を批判するため9月の終わりから毎晩10時から15分ほど「カセロラッソ」と呼ばれる、住民がベランダに出て鍋やフライパンを叩く意思表明行動が行われていました。これは、私の思い出す限り、2002年に米英と共同してイラク侵攻を行った国民党政府への抗議表明以来のことです。
 
カタルーニャはスペインではないと考える人は多くいます。言語も食文化も異なっています。そして歴史も。カタルーニャ12世紀に王族の結婚によりアラゴンとの連合国となったあと、15世紀には再び王族の結婚によりスペインに組み込まれます。16世紀には同様に王族の結婚等によりポルトガルとオランダもスペインの一部となりますが、オランダは16から17世紀にかけて、ポルトガル17世紀にスペインから独立します。カタルーニャでは、その間、幾度も反乱が起きます。スペインに対抗した18世紀初頭のスペイン継承戦争では、カタルーニャが主要な戦場となり、1714910日にバルセロナが陥落し、その後は、カタルーニャ語の公式の場での使用禁止など一連の抑圧政策がフランコ独裁時代まで続きます。この910日はカタルーニャの日として、独立を求める人たちの記念日となっています。
 
1975フランコの死去によりフランコ独裁が終わり、スペインは民主化に動きます。1978年には民主憲法が定められ、その第2条には「スペインは各地域、民族の自治を認め保証するが、スペイン国は分裂不可能の1つの国とする」となっており、これが、カタルーニャ独立運動が違法だとする根拠となっています。
 
独立運動が、急速に展開したのが2010年、社会党政権時のスペイン議会で2006年に可決承認されたカタルーニャ自治憲章を、右派国民党が違憲であるとして、憲法裁判所に提訴。国民党政権になってからの2010年に、憲法裁判所は同自治憲章が違憲であると判断しました。その年から毎年バルセロナにおける独立を求めるデモは2010100万人、2012150万人と巨大化していきます。2013911日にはカタルーニャの北端から南端までの480キロメートルを160万人が手をつなぎ、2014年同日には180万人がバルセロナの中心にVVotar投票Victoria勝利Voluntat自由意志)の字を作ります。
 
同年11月、当時の州首相マスは、民意調査の名目で独立を問う住民投票を実施しますが、これも憲法裁判所により違憲とされ、不服従の罪で2年間の公職追放とその住民投票にかかった費用約8億円を請求されています。
 
2015911日は140万人のデモがあり、同月27日のカタルーニャ州議会選挙では、独立賛成派が135議席72議席過半数を占めます。議会は同年11月に、スペインから共和国として独立する手続きを開始する宣言を行い、州首相プッチダモンは、2017101日に住民投票を行い、賛成多数となった場合には48時間以内に独立宣言をする意向を表明します。
 
国民党政権スペイン政府はこの住民投票を阻止しようと、その1週間前までにスペイン各地から30004000人の警察を送り込み、投票用紙や投票箱等を回収していきました。101日当日早朝、プッチダモンは身分証明番号さえあればどこの投票所でも投票可能と発表し、彼自身はトンネルの中で車を乗り換え、彼を追うヘリコプターから逃れ、予定されていた投票所ではない場所で投票します。この間、彼の投票を阻止するため、予定されていた投票所には警察がガラスを割って侵入し、投票箱を回収します。
 
普段の選挙に使用される投票箱は回収されていました。そこで密かにアマゾンで投票箱を購入し、ぎりぎりまでフランスに保管し、市民が自分の車で密かに投票所(学校等)に運び、金曜の夜からそこで寝泊まりしていました。投票用紙も市民がプリントアウトして持ちよりました。そこに警察が投票箱を奪おうと乱入し騒動となります。負傷者が1000人以上出たにもかかわらず、カタルーニャ人は武装することなく、ゴム弾を打ち警棒をふりまわす警察の映像が世界に流れました。
 
このような通常ではない投票行動、しかも中央政府が違法だと大騒ぎする中であったにもかかわらず、投票率43%、独立への賛成票は90%でした。
 
住民投票で独立が承認された場合、48時間以内に単独で独立宣言を行うと表明していた州首相プッチダモンは、9日間沈黙します。その間に、カタルーニャの大銀行2行が本社をカタルーニャからスペインの他の都市に移したのを始め、大企業の本社移転が起こります。国連とEUカタルーニャの独立はスペインの内政問題とし、独立を認めないとしているからです。
 
1010日、プッチダモンは独立宣言を行いますが、同時に独立を一時凍結し、スペインとの対話を取り持つ国をさがします。が、名乗りを上げる国はありませんでした。
 
21日スペイン首相ラホイが、自治州の権限を中央政府に委ねる憲法155条の発動を表明、議会上院での審議に入ります。27日上院が155条の実施を承認した同じ日、カタルーニャ州議会は、独立の投票を行います。結果は賛成70、反対10、白票2、棄権53。議会は独立を宣言しました。
 
その前日26日スペイン政府は、独立運動を率いた2団体の指導者2人を扇動罪で逮捕、拘束し、住民投票阻止に積極的に動かなかったカタルーニャ警察の所長を出頭させます。
 
スペイン首相ラホイは、27日上院での承認が済むと直ちにカタルーニャ議会を解散し州首相以下閣僚を罷免し、1221 日に新たに選挙を行うことを発表します。さらに29日にはカタルーニャ警察トップを罷免します。
 
31日プッチダモンは州の閣僚5人と共にベルギーに現れます。首都ブリュッセルで記者会見を行い、亡命を否定、ヨーロッパ市民として自由と安全を確保される地で活動する。反逆罪はテロリストに与えられる罪名であり、テロリストではない我々は、ヨーロッパの首都ブリュッセルでの裁判命令を待つとします
 
111日、特別高裁がプッチダモン、州副首相ジュンケーラス、閣僚たちに翌日の出頭命令。2日、スペイン首都マドリッドに出頭したジュンケーラスと7人の閣僚をスペイン政府はそのまま逮捕、収監します。罪状は反逆罪、扇動罪、官金私消罪です。この8人と上記の2人は、明らかな思想犯でしょう。カタルーニャ各地だけでなくバスクでも釈放を求めるデモが行われ、バルサの試合には釈放を求める大きな横断幕が掲げられ、バルセロナの街は夜10時になると、カセロラッソで鍋を叩く音が響きわたっています。
 
本日115日現在、スペイン国内では(元)州閣僚たちが3度目の夜を刑務所で迎える中、プッチダモンと閣僚4人は、スペイン政府の要請を受けたブリュッセル警察に出頭しました。自国でも独立問題を抱えるベルギーがどのような判断を下すのでしょうか。
 
独立派は、スペイン政府決定の1221日の州選挙を受け入れました。プッチダモンはブリュッセルから立候補の意思を表明しています。カタルーニャ州の住民は昔からのカタルーニャ人に加え、スペイン各地から移ってきた住民も多く、この選挙で独立派が再び勝利するか、それとも独立反対派が勝利するか、蓋を開けてみないとわかりません。独立派が勝利した場合には、再び同じことを繰り返すのか、それもわかっていません。
 
オランダが独立宣言をしてからスペインが承認するまでには約70年、ポルトガルの場合は約90年かかっています。21世紀に独立しようとするカタルーニャ、これから果たしてどうなるのでしょうか。
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以上、これをどのように受け止めるかは、皆さんの判断にお任せします。