裕福より幸福に・・・

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鎖国していた江戸時代の日本は、武力でこそ諸外国に劣っていても、
人々が暮らす文化においては、世界一の秀でた国だったかも知れません。
特に江戸においては、正月から大晦日まで年中行事が続いており、
最近では廃れていますが、年間に40~50の行事があったようです。
我々が今でもやっている、正月、初午、お彼岸、節分などのほかに、
恵比須講、藪入り、六阿弥陀詣、針供養などが常識的にあったのです。

月に4回くらいは、自分も参加する何かの行事があったって事は、
江戸に暮らした人々って、年がら年中行事をして暮らしていたってこと。
ひな祭りが過ぎれば、潮干狩りの準備に入って、灌仏会が近づき、
花見にも行かなくちゃいけないし、やがて端午の節句になる。
それぞれの行事自体は、庶民が個人で参加できることばかりですが、
どこかの大本では、その裏付けとなる行事もしっかり行われているのです。

当時の浮世絵を見ていても、雪見、花見、月見、紅葉狩り等々、
日々の暮らしの中の楽しみは、誰にでもあったことがよく分かります。
正月の初荷でさえ、盛大なお祭りのように賑わっていたようですし、
神田祭山王祭など、江戸中から人々が集まっていたような賑わいです。
そして忘れちゃいけない、歌舞伎と相撲の人気も凄かったようで、
浮世絵にさえ歌舞伎役者を描いた役者絵が、一つのジャンルになっている。

江戸は徳川幕府が、町の構築のために大勢の人足を集めた当初から、
若い男が集まってきたのが最初で、女の数は少なかったようですね。
そのために地方から、様々な形で女も集められてきましたから、
これが名炊き女や洗濯女となって、やがて遊郭のような場所も定まった。
諸外国の買収宿とは違って、遊郭には独特の文化が生まれており、
この文化は明治以降も続いて、つい50年ほど前まで繋がっています。

江戸文化が見直されるきっかけになったのは、まずそのエコ生活で、
人々の糞便さえ農作物の肥やしとして、有料で引き取られていました。
もともと日本は木と紙の文化ですから、必要なくなれば燃やせば良いし、
わざわざ燃やさなくても、しょっちゅう起きる火事によってきれいに消える。
何も無くなったところで、また出直すのが日本文化の原点ですから、
これを禊ぎと考えれば、まことに神々しい日常の連続なのです。

エネルギーはすべて循環できるし、不燃廃棄物など何も無いうえに、
住まいは風通しが良くて、そもそも家具なんて物はほとんど無いのです。
鍋と着物があれば、長屋にでも潜り込んで暮らしていける環境で、
所帯を持ったところで、財産と言えば長持が一つくらいのものでしょう。
プライベートなんて無いけど、人間のやることは皆同じだから、
お互い様で助け合い、娘は15にもなれば男が出来てあたりまえです。

今日紹介した上の写真は、江戸の名物を扱った双六の一部ですが、
日本橋の朝市から始まって、66件の江戸の名物が並べられています。
むぎめし、いなりずし、あなご、どじょう、うなぎめし、やぶそば、
なんて今にも通じる食べ物を扱う店から、お店の名前と見えるものもある。
上がりは山王祭ですから、この双六で江戸のおよそが楽しめますし、
現代人の楽しみと、あまり変わらないのも嬉しくなります。

宵越しの金は残さないのが、江戸っ子の気っ風と言われたとおりに、
人々は環境を壊すことなく楽しみながら、人生を謳歌していた。
電気もガスもない暮らしがどんなものかは、案外楽しいと知っているし、
目に見えない放射能の心配で、どこへ逃げて良いかわからない不安もない。
こんな時代に戻れるものなら戻りたいのに、これだけ破壊した環境を、
さらに破壊しても経済成長したい人が、現代のリーダーですから・・・