= 大政奉還 =

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今から150年前の10月13日は、日本で無血革命の当日でした。
世界中の歴史を見回しても、こうした政権の委譲はとても珍しく、
日本人の何かを知る上でも、大きな鍵になる出来事だったと思われます。
すでに流れは薩長に傾いたとは言え、徳川にはまだ大きな力があって、
両者が闘えば、この国は大きく二分されて戦禍に飲まれていたでしょう。

おりしもこの日は、薩摩と長州に倒幕の密使が下った日とされ、
間おかず徳川慶喜は、政権を朝廷にお返しすると発表しているのです。
翌日の14日には、将軍慶喜大政奉還を認めた上表文が朝廷に届いている、
と言うことは、まるでクロネコヤマトのようなスピード配達です。
こうしたことが可能だったとすれば、やはり徳川には力があったのです。

「政権を朝廷に放帰して、広く天下の公議を尽くして御聖断を仰ぎ、
 万民一致して皇国を興隆し、外国と並び立つこと」と記されていたとか。
朝廷はこれを受理して、軍事衝突によらない政権委譲が成立する。
視点を変えて言い換えれば、いかに天下を支配していた徳川と言えども、
その権力は朝廷から預かったものとして、身の引き場所をわきまえていた。

「お天道様」ではないけど、如何に天下人と言えどもその上があって、
自らの身の律し方をわきまえていれば、自分を客観的に見ることが出来る。
徳川幕府の頂点にいた慶喜は、日本の教養をわきまえていたはずで、
そうして客観的に自分を見たときに、先の上表文が出来上がったのです。
日本人の信じる価値観の中にあったはずの、こうした謙りが懐かしい。

このあと王政復古の号令が出された、12月9日までの2ヶ月間は、
様々な疑心暗鬼や企みが走り回り、天下は大混乱していたと思われます。
しかし奉還した徳川家にまだ力があったからこそ、市中は混乱せずに、
人々は日常生活を維持しながら、新しい時代を迎えることが出来たのです。
徳川慶喜の判断がどれほどのものだったのか、今だからこそわかります。

今年は大政奉還から150年にあたり、様々な行事も企画されて、
世界遺産・二条城の二の丸御殿内が、ライトアップもされるようです。
江戸時代までの日本人と日本社会が、何を目指していたのかを考えながら、
これから僕らがどこを目指し、何を喜捨していけば良いのかを知る上で、
もう一度思い出してみるべき、まれに見る歴史的事件だったのです。