コシヒカリが出穂
いよいよお盆が近づいて、稲の出穂も始まりました。
今のところはコシヒカリの箱苗分と、黒米の早生だけですが、
このあと香り米や大正餅が、順次花が咲いてくるでしょう。
同じ稲であっても、種によって穂の姿は大きく違っていますから、
いづれその違いを、少しずつ写真で紹介していきましょう。
それは人の世を写すようで、多様な姿がありますから、
そのどれが優れていると言った、優劣の問題ではありません。
早く咲く稲穂はそれなりに、遅く咲く稲穂もまた違って、
それぞれに命を謳歌しながら、世界の一部となっているのです。
人類はそれぞれの価値を知るからこそ、多様性を重んじて、
人種に対する優劣感を、間違った考えだと一蹴します。
アメリカをはじめとする、世界の数多くの国々では、
今でも人種差別が根強くあって、諍いの基になっている。
それでは日本はどうなのか、と考えてみるならば、
朝鮮人に対する差別は、決して無くなってはいません。
沖縄人やアイヌ人に対する根強い差別も、無いとは言えないし、
新しくは福島の人に対する差別も、あからさまになっている。
いじめの原因にもなっている、この差別とは何なのか、
自分を安全圏に置くために、他者を差別して罵倒する心理。
自分を守るために他者を攻撃する、その理由を作るための差別が、
あたりまえのように蔓延るのは、人々に自信が無いからです。
おのれ対する自信のなさから、人を貶めることによって、
優位性を確保して、心の安心を図ろうとする心理です。
自然界においても、自らの種を誇らしげに主張しますが、
だからと言って他者を貶めるような、そんな手法はとりません。
蔓草の中には、そうした攻撃的な種もあると見受けますが、
基本的には他者と関係なく、自らの生命力をもって競い合う。
少なくとも稲同士が争って、他種を滅ぼそうとするような、
攻撃力の競い合いなど、自然界の循環には存在しないのです。
自然農において、草や虫を敵にしないと言うことは、
特定の草や虫を根絶やしにせず、ただ稲や野菜を守るのです。
結果ととして刈り倒す草も、殺してしまう虫のたぐいも、
合理的に処理するのではなく、活かすべきものを活かすなかで、
必要に応じて倒され、それがまた次の命を助けるのです。
この兼ね合いが、イリイチの生きる思想にも現れています。
命の本来の姿を大切にするには、過剰な合理化に走らず、
外側に対する影響をなるべく少なく、質素に暮らすしかない。
その暮らしはやがて大きく崩れるもので、崩れたときには、
またコツコツと築いていく、余白を守るもの大切な営みです。
日本人にはそれが出来たから、今日の繁栄があるのです。
合理化で余白を食いつぶす日本人は、やがて日本らしさを失い、
個性の見えない単なる生物人種となって、滅びるのかも。