肥田舜太郎さんを惜しむ・・・
3月20日に、満100歳でお亡くなりになった肥田舜太郎さんは、
彼を最初に知ったのは、鎌仲ひとみさんの映画「ヒバクシャ」で、
そして自らの体験を基に、内部被曝がどれほど危険なものか、
目に見えない形で進行する被曝の脅威を、明確に語られたのです。
1917年に生まれて、今年でちょうど100歳になられたのですが、
亡くなる一週間前に、彼を取り上げた映画「太陽の落ちた日」を見ていた。
その映画の中で語られた多くのことが、今あらためて思い出されます。
広島で医師として被曝しながら、内部被曝など認めない占領軍によって、
その実情を医師会で報告することも出来ず、何も資料を残せなかったことで、
その後の被曝者に対しても、内部被曝は一切認められてこなかった。
鎌仲さんはこの医師との出会いによって、内部被曝のことを知り、
僕もそうした姿勢に共感して、様々な情報発信と市民活動をしてきました。
だけど起きるべくして事故は起き、多くの人が被曝してしまった後で、
ようやく遅まきながら、彼の言動が注目されるようになったのです。
早稲田第一高等学院で建築学を学んでいたとき、下町工場街の託児所で、
不衛生と貧困の子どもたちを見て、医師を志して日本大学専門部医学科に入学。
自ら「小児衛生研究会」を立ち上げるなど、社会運動的活動をして、
時の政府から「自由主義的傾向あり」、と解散を命じられたりしています。
その後太平洋戦争が始まって、学業の多くが軍事教練となると反発し、
医者の勉強をさせろと訴えたことが、反軍傾向ありとして懲罰召集を受ける。
以来被曝者を治療するために、医師として活躍していた人なのです。
反米活動でけしからんとして、軍に逮捕されたことが3回あったと言います。
被曝者の検査はするが治療はしない病院が作られる、と聞いた肥田さんは、
治療もするように交渉しますが、連合軍総司令部に断られています。
こうした強い意志の彼は、1955年には第一回原水爆禁止世界大会に参加、
彼の一番に強みは、数多くの被曝者の臨床を踏まえた被曝への理解で、
こうした多くの臨床を持って発言する人は、世界でも少ないと言われます。
「九条の会・さいたま」の呼びかけ人となり、講演活動を続けてきました。
日本全国で300回を超える講演をして、脱原発を訴えてこられたのです。
こうした正義感の強い頑固な日本人が、また一人亡くなったことで、
僕らはさらに自由を失う、危うい時代を迎えているのかも知れません。
日本人に課された大きな試金石になる、と考えるのですが・・・
!勝俣兄弟よ、肥田さんの爪の垢でも煎じて飲め!
同じ人間として、そう思わずにはいられません。
肥田舜太郎さんのご冥福をお祈りします。