鎮魂と招魂、そして精霊崇拝

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井波八幡宮

日本人の宗教観は欧米と異なり、一神教ではありません。
八百万の神々をそのまま敬い、八幡宮を大切にすることで、
その土地の恵みに感謝して崇めることが、基礎になっている。
日本各地の祭りや信仰行事は、この感性を基本にして、
神々との繋がりを深めることが、主な目的なのです。

神々との繋がりを深めることで、自らも世界の一員となり、
日々の暮らしや活動に意味を見いだし、安住の暮らしが出来る。
あらゆるものを受け入れて、恐れ、敬い、意味を見いだすことで、
自らの至らなさまで、受け入れていただこうとする考えです。
ここには敵という考え方はないし、荒ぶる神はいさめることで、
折り合いをつけながら、うまくやっていこうとします。

巫女の霊力によって、社会の輪を作っていた限りでは、
誰とも対立はしない代わりに、思い通りに支配も出来ない。
社会が大きくなったとき、これを統率したいと思った人物は、
自らの力を誇示するために、ライバルを打ち伏せる必要が出る。
そして打ち据えた後で、相手の霊魂の怒りを静めるために、
慰霊、鎮魂、と言った行為が必要になり、社を建てるのです。

いわば天皇家による祭事は、農耕の恵みに感謝する事と、
過去に打ち倒し平定してきた相手に対する、鎮魂で成り立つ。
そして長い歴史の中で、鎮魂の祭事は表に出なくなり、
農耕の恵みに対する感謝の儀式が、主なものになりました。
僕らが親しむ天皇家のイメージは、農耕の神を祭り、
家族を大切にする、土着民の代表として崇めるのです。

それではもう一つ、この天皇家も参拝しない靖国とは、
何なのかと考えたとき、思うのは歴史の浅さと意図でしょう。
八百万神を信じる民族が、何かの意図を持って荒ぶる神を招き、
その神々を讃え崇めることで、戦意を高揚させるのです。
多くの社が鎮魂慰霊のために建てられたのと違い、招魂社は、
穏やかな人々を奮い立たせて、荒ぶる人にするのです。

そんなところに祭られた人は、魂も静まることなく、
建立した為政者の意図のために、穏やかではいられない。
日本人が見いだした、八百万の神々と八幡宮の存在は、
どんな意図も飲み込んでしまいますが、靖国はこれに抗う。
それもまた自由ではあるけど、平時に国政を預かる人たちが、
わざわざ靖国参拝をするのは、見え透いて恥ずかしい。