山も平地も雪模様

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昨日は朝から雪が降り続いて、今季初の積雪になりました。
すでにタイヤも履き替えているし、家に雪囲いをするわけでもなく、
大雪にさえならなければ、雪が積もってもどうってことはない。
そう思ってはいても、雪が降れば寒さもひとしおですから、
何をするにしても、雪がない季節のようには行きません。

とは言え町中に関しては、融雪装置が行き届いていますから、
車で出かける分には、何不自由があるわけでもないのです。
これだけ便利な世の中になって、良かったと言えば言えますが、
同時に失われたものの価値を思うと、嬉しいとばかえりは言えない。
雪の降り方や積もり方、あるいは季節毎の雪の呼び名があって、
そうした風情が、車社会と共に失われてしまった感がある。

例えば、初雪、粉雪、牡丹雪、細雪新雪、など聞き慣れた雪に、
べた雪、風花、淡雪、冠雪、名残雪、残雪、等々があって、
それぞれ独特の意味合いを持ちながら、区別されていた。
もちろん現代においても、こうした言葉は使われていますが、
たとえ雪国においてさえ、日常的に使われることはなくなっている。

朝にうっすら降り積もった新雪の上を歩くと、乾いた感じがして、
まったく溶けないから、真っ白い砂の上を歩く感じがする。
それに比べて水を多く含んだ所では、独特の踏み応えを感じて、
何か艶めかしい感じさえしたのは、あれは何だったのだろう。
降り続く雪をじっと見上げていると、雪が降ると言うより、
自分が空へ登って行く錯覚に陥って、愕然とすることもあった。

思い出だけで言うなら、様々な恋の駆け引きが思い出されて、
10代の頃の自分に戻り、人生の様々なことが繋がってくるのです。
今の若い人たちだって、同じように繊細な心と神経を持って、
恋をしたり絶望したり、果てしない夢を見たりするはずなのに・・・
話題になって出てくるのは、そうした繊細な話しではなく、
いじめだとか貧困だとか、殺人事件のような話しばかりです。

昔なら人生60年と言われ、僕はもう終わっているはずなのに、
あまりにも多くのものを見てきて、まだ終わりそうにない。
それは良いことなのか、それとも単に悲しいことでしかないのか。
新聞もテレビもない暮らしをしていると、人々の話題が、
あまり意味のあるものとも思えず、むなしく感じてしまう。

利便性を求めた文明の行く末に、何があるのかが知れて、
それは自分が望んだものではない、とすればどうするのか。
社会を変えたいと思う人もいるでしょうが、社会総体は変わらず、
人々の私利私欲が牽引力となって、破壊が進んでいるのです。
気がついた者からその道を正し、人が何と言おうと、
自分だけは正しい道を行く、覚悟が必要な時代になった。

こうすれば絶対に正しい、と言える生き方はないのなら、
常に迷いながら考えながら、生きていくしかないのですが、
実はその迷いの中にこそ、人を正しい方へ導く鍵もあるはずです。
まず迷い考えて、これだけは守りたいと思える何かを探し、
見つけても見つけても終わらずに、迷い続けるのがいいのです。