落ち着きどころ
そして「行政改革推進」の、3つの委員会に参加しています。
委員になってから半年間、何の音沙汰もなかった行革は別にして、
男女共同参画は高岡で活動した頃から、すでに十数年経ちます。
そして協働の町作りも、やがて10年近く関わっていると、
いろいろ見えてくることもあるので、それを書いておきます。
まず協働の町作りですが、南砺市において田中市長が立候補し、
協働の町作りが唱えられて以来、僕もこの活動に参加してきました。
条例の勉強会から始まって、具体的な条例策定ににも参加し、
今はまた推進委員会に参加しているわけですから、かなり長くなる。
そして当初の理想を求めた熱気から、少しずつ現実の実効支配が目立ち、
気がつけば理想よりも、現実のノウハウの方が優先されてきました。
予想されていたことですが、例えば目的を持つボランティアも、
これを維持するために、収益を上げる必要が出てくれば活動も変わる。
設立当初の目的が正しければ、これを長く維持するためには、
あらゆる試みをすればいい、とする考え方が主流を占めてきます。
実際に団体を維持するためには、収益を上げる必要があって、
収益を上げるためには、多少の性格の変更は仕方が無いと考える。
欧米では寄付の文化がありますから、必ずしも補助金便りではなく、
寄付を募ることで、純粋にボランティアの団体が維持できる。
しかし日本には、そうした文化が元々根付いてはいませんから、
よほど名のある大きな団体でもないと、寄付を集めるのは難しい。
どうしても収益を上げないと、団体自体が維持できなくなるジレンマで、
気がつけば団体の性格まで変わってしまう、なんてよくある話しです。
昨年も僕自身、そうした町作り団体の依頼で仕事を引き受けると、
仕事は管理ばかりが目立って、ちっとも協働ではないのでやめました。
僕がやめたことでまた天下りが起き、それはそれで困ったのですが、
自分ができないことを、いつまでも引き受けているわけにはいきません。
これが南砺市における協働の町作りと思えば、少し残念ですが、
僕はなるべくぶれないように、距離を置いて見ていた方が良いようです。
さてもう一つの男女平等ですが、今回の推進委員会に参加していて、
市民の多くが求めた「南砺市らしい男女平等」を、自分なりに考えました。
そして思うことは、やはり現実をどう受け入れていくかと言うことで、
DVやセクハラのような問題行動でない限り、自由で良いと思うのです。
現代の人間における男女は、マスコミによる様々な入れ知恵によって、
「こうあるべき」とする型を。求めすぎているように思うのです。
ファッションやイベントも然りですが、例えば生き方においてさえ、
企業に都合のいい人生設計を提示して、多くの人をそこへ向かわせる。
ひとたび収益を求める企業活動と結びつくと、男女平等でさえ、
一定の枷を用意して、そこに押し込めようとするのが一般的です。
しかし本来の男女平等はもっと自由で、むしろ枷をはずそうとする、
自由への欲求から来たものが、今は何らかの意思に利用される傾向がある。
あまりにも教条的な男女平等の在り方よりも、もっと緩やかで安心できる、
生活に根ざした男女平等が求められているのは、分かるきがするのです。
例えば日本の文化は、女性にとって堅苦しいところがあるのなら、
苦しいところを直しながら、ゆるく変化していけばいいのだと思います。
国連が策定した教条にしたがうことは、一つの指針ではあっても、
最終的な落ち着きどころは、少し違うところにある気がするのです。