“ある”とは何か?

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現在地球の裏側では、オリンピックが行われているらしい。
日本人の多くは、テレビでその模様を観戦しているでしょうから、
誰も疑わずに、地球の裏側でオリンピックが行われていると信じている。
それはたぶん事実だろうけど、自分とどんな関わりがあるか、
何一つ実感はないし、オリンピックとは何なのかよくわからない。

我が家にテレビがないので、カーナビの車載テレビを時々見ていると、
体操男子の団体金メダルの演技や表情が写され、幸せそうに見える。
だけど農作業をしているときも、家で姫の相手をするときも、
食事をするときも、オリンピックを思い出すことはまったくない。
しかしもしも家にテレビがあれば、きっと違う感情があったでしょう。

僕らは何故に何を考えるのか、見せられたものを材料にして、
さらには会ったこともない人のコメントや解説が、脳全体を支配する。
直接見たものは少なく、触ったものはほとんどない世界で、
実感というものさえ曖昧で、仕向けられたように考える人たち。
どうやって参加して、どのように何を信じれば良いのか。

我思う故に我あり・・・と言った人が、古い昔にいたとか。
わざわざそんなことを言うのは、存在に確信が持てなかったのか?
それとも言葉にすることで、確信を持ちたかったと言うことか。
言葉にすることで生まれるものがあると、知っているから、
祈りの詔は大きな意味を持ち、そこに力さえも生じるのです。

あなたは何をお望みか?、と聞かれたら何と答えるのか。
百人百様の答えがなければウソで、その同じウソが蔓延するから、
同じ心を持つ人とだけ、本気で話をすれば良いのかもしれない。
あると言うよりは、あらせることであるようになるのだから、
何が僕らを在らせているのかは、ほぼ察しがつくのです。

現実世界とバーチャルリアリティは、どのように関わるのか、
新しいソフトが登場して、僕らはそれを目の当たりに見る。
そこにあるものは常に、“ある”とは何か?の問いでしかありません。
次々に塗り替えられる記録でさえ、いかにも宙に浮いた話なので、
僕は何を持って実感するか、やっぱり確信が持てないのです。

何にも惑わされずに、自分を生き抜くことができるのかどうか、
優れた才能を持ったイチローなら、できたのかどうか。
少なくとも凡人には、そんな秀でた生き方はできませんが、
生きる上での一貫性は持つことができるし、これは大切だと思う。
あなたは何者か、この一貫性だけが表現するのだと思うのです。