体内年齢49歳!

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去年タニタの体重計を買いまして、それ以来時々体重を量りますが、
最近の体重計は体重ばかりではなく、いろんなものを数値で見せます。
ただしこれらの数値は、体脂肪率とか筋肉量とか基礎代謝量とかいわれても、
何のことやら実感がないので、ほとんど見ることはありません。
ところがただ一つ体内年齢に関しては、わかったような気になるので、
一喜一憂しながら見ますし、49歳と出ればなんだかうれしくなります。

僕の実年齢は63歳なので、実年齢よりも14歳若いというのですから、
何がどうしてなのかわからないままでも、なんだか良いことのように思う。
若いということは本当に良いことなのかどうか、その辺からして、
どことなく胡散臭いのですが、余命が長い気がしてうれしいのかも。
長く生きれば良いというものでもない気がするけど、長生きはありがたくて、
そのぶん様々な体験ができることは、命として大きな喜びのはずです。

しかし現代人の健康志向は、お金に頼るところが大きい気がして、
あまりありがたい気もしないし、惰性で生きている人が多い気もする。
本来命というものは、その可能性を精一杯挑戦するところに魅力があって、
またそれを挑戦するには、自らの存在を掛ける確信がないとできません。
しかるに現代多くの人たちは、自らそのような確信などないままに、
ただ多くのお金を稼いで、少しでも長生きしていたい感じがする。

せっかく地上に生まれた命を、しっかり活かせているのかどうか、
せめて納得いくまで自分の存在の意味を、考えたのかどうか気にかかる。
と言っても僕のように、そんなことばかり考えていたのでは、
生活がままならないから、まずは生活のためにお金でも稼ぐのか。
お金はいくらあっても足りないので、お金を求め続けていれば、
それがその人の人生のすべてになって、ほかに何もないとしても・・・

自然を中心とした人生に対して、バーチャルゲームのような人生は、
やっぱり底が浅いと思うし、自分は自然の一部としての命を生きたい。
すなわちどう考えても、お金は手段でしかなく目的にはなり得ないので、
命がけでお金を稼ぐ資本主義は、非人間的な経済システムだと思う。
未来を見据えて方向性を思い描くなら、コンヴィヴィアルな社会をと思い、
もう何十年も生きてきたけど、社会はまだグローバル資本主義とか。

人はどうあれ自分は正しい道を生きるしかない、と思い定めれば、
不思議と幸せが転がり込んでくるし、不幸もなんとかやり過ごせる。
一歩下がってみれば、こうして日々の食べるものに不自由なく、
モンサントの科学に悩まされることもない、あっぱれ幸せな日々がある。
摘んできたヨモギの料理に舌鼓を打って、タニタの体重計に乗って、
おのが人生に夢がある限り、若さは我と共にあるしかない。