どんな嵐の時代にいても

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今僕らが暮らしているこの世界を、どう捉えるのか?
遠大な宇宙の一部として、歴史を考えるにしても、
僕らの実感を離れては、何も意味を持って感じられない。
姫は少しずつ知恵が付いてきて、母親を他者として認識すると、
自分の思うようにいかないことに、全身で不満を表します。

だけど母親を抜きにしては、そんな表現も意味が無くなるので、
どんなに不満を言いながらでも、母を求めてもいるのです。
人間にとっての意味とは、五感で感じられることを基にして、
そこから育てた心や意志が、腑に落ちることで成り立っています。
どんな理論や芸術のような表現も、基はこの感性だから、
感性が満足できるものを求めて、暮らしてきたのが人なのです。

文明の発達と共に、様々な道具が日常に満ちあふれてからは、
外に蓄積された知識や、高度に理論化されたものがもてはやされる。
それは確かにありがたいけど、自分で実感できないことであれば、
本来の意味は薄れて、価値を感じることも難しくなるでしょう。
インターネットや、スマホがあたりまえの現代社会では、
膨大な情報や知識は、実感を離れたものになっているのです。

だからこそ不安で、しがみついてしまうのかも知れない、
他に拠り所が無くなれば、感性さえ根無し草になるでしょう。
「私にはタラがある!」と、感動的に叫んだスカーレットこそ、
失われた価値を見事に表して、今を映し出して見せるのです。
僕らはいつのまにか、そのような帰る所を失った上で、
さてこれからどこへ向かえばいいのか、決めかねています。

だけど実は、多くの人はもうわかっているのでしょう。
赤ん坊は五感から始めて、父母と他者をさえ見つけたように、
人はこの直接的な実感によって、社会さえも見つけだすのだと。
その感性が大地や五感から離れたときに、何が生まれるのか、
それが望ましきことだとは、誰も思ってはいないのです。
僕らに何が出来るかではなく、いったい何がしたいのかと。

お粗末な政治を生んだのは、まさしく有権者だとすれば、
世界の温暖化や異常気象だって、人々がもたらしたことです。
百年掛けてもたらされた病気だって、いつかは快復するものなら、
僕らはいつだって、百年先のことを考えて生きる必要がある。
目先に惑わされないで、生き方に理想を求めるしかないのです。