他力本願と他人本位
自分の生き方を考えるとき、今の時代においては、
自立を望むがあまりに、自分本位になることが考えられます。
それが行きすぎると、自我に振り回されて盲目になり、
いわゆる自己中心となって、周囲の迷惑を顧みないことになる。
純粋に自力で悟りを求めるならいざ知らず、禅宗などの、
悟りの境地を目指す宗教でさえ、他者である師を必要とする。
自立を望むがあまりに、自分本位になることが考えられます。
それが行きすぎると、自我に振り回されて盲目になり、
いわゆる自己中心となって、周囲の迷惑を顧みないことになる。
純粋に自力で悟りを求めるならいざ知らず、禅宗などの、
悟りの境地を目指す宗教でさえ、他者である師を必要とする。
まして僕らのように俗世に生きて、生き方を考えるとき、
他力に縋ることを教えた浄土真宗など、いかにも身に添います。
北陸に最初に入ってきたのが、真言密教などであったのに、
いつのまにか寺が宗派を鞍替えして、真宗王国になったのも、
実によくわかるし、それが今に至るまで綿々と続いているのです。
今ではサービス業の教訓のように言われる、おもてなしの心も、
本来はうまく生きるための、知恵だったのかも知れません。
明治の頃から、日本も自立や自己の確立を掲げるようになって、
迫り来る西欧列強と、競って覇者になることを目指しました。
自立することの最終目標は、他者を顧みないことであって、
もしかすると、人間的にはあまり望ましいことではないような。
そんなときに頭に浮かんだのが、“他人本位”と言う言葉で、
これは明治に自己本位を導入する前、江戸時代に育まれた、
日本人の知恵であり、日本文化の多くはここに寄り添っています。
例えば見知らぬ土地で道に迷った人が、一軒家を訪ねたとき、
一軒家の主が自己本位であれば、厄介なことは拒否するでしょう。
しかし日本文化は他人本位なので、相手が困っていることを思ん計り、
相手の身になって、手助けをしてやる意気を示すことになります。
お祭りも商売も自分のためではなく、相手の身になって行い、
相手を楽しませること、相手に喜んでもらって初めて成り立ちます。
こんな風に理解してくると、今の日本文化というのは、
経済を中心に自己本位な人が多く、どうしても違和感がある。
社会的な地位は経済で計るので、社会的地位が尊敬できるものでなく、
表と裏の使い分けをしないと、実情にそぐわなくなっているのです。
もちろん経済界で成功した人にも、他人本位の人は多いので、
そうした逸話には事欠かず、伝説的な人も数多くいるでしょう。
しかしながら、そうした人が逸話になるくらい現実はそうではない。
見る人に喜んでもらうための踊り、使う人に喜んでもらうための器、
この相手を喜ばせることを、実用性よりも重んじる価値感は、
欧米の合理主義には、なかなか見出せないものだと思うのです。
ありがたいことに僕らは、長い日本の歴史の中でこうした価値感を育て、
今は表面的には失ったようでいながら、確かに日本人の血脈にある。
これを失うことなく今一度自覚して、末永く守り育てていけば、
どんな時代になろうと、自らの生き方を見失うことはないでしょう。