やりきれない事件

イメージ 1
 
先日川崎市多摩川河川敷で起きた、中学1年生上村遼太さん殺人事件は、
すでに容疑者も捕まっており、事件の詳細を調べる段階に入っているようです。
様々な当事者のコメントが出て、ネットの記事も賑やかになっていますが、
今回の事件の様子は、僕なんかが知る限りなんとも言えずにやりきれません。
事件の主犯と言われる18歳の少年も、特別な異常性は感じられないし、
どこの町にでも少しはいる、いわゆる不良と呼ばれていそうな少年のようです。

こんなどこにでもいそうな少年が、どうしてこんな残忍なことができたのか、
“Islamic State”によって公開された斬首や焼殺が、少年たちの心に、
何か潜在的な影を落としているのではないか、と思われてしょうがないのです。
首への深い切り傷による殺傷だとか、恐怖心をそそる全身への切り傷とか、
あるいは衣服の焼却なども、証拠隠滅よりは儀式的なニュアンスを感じるし、
相手を暴力による恐怖で従わせようとするやり方も、IS的だと言えるでしょう。

暴力を否定するというのは、自ら暴力を振るわないのはもちろんのこと、
相手に暴力を使わせるような状況に、追い込まないことも大切なことです。
抑止力としての軍事力なども、疑心暗鬼を生む基になるでしょうが、
国と国との対立が起きた場合には、よほどの独裁政治の国でない限り、
それぞれの国内に様々な見解があることこそが、強い抑止力となるのです。
しかし個々の人間の場合には、孤立によって抑止力はなくなるのです。

したがって個人レベルでは、何よりも孤立させないことが大切ですが、
孤立はグループの中にいても起きるので、簡単にわかることではありません。
それでは人間に理想的な関係など無いのかと言えば、間違いなくあって、
教育による人間理解こそが、人を孤立させない一番の方法なのです。
人は人を必要としており、人から必要とされていたい存在なのですが、
そのことを実感できるような社会参画へ、人を導く必要があると考えます。

しかしどんな理想も、思うようにいかないのが現実でもありますから、
たとえ最善の教育が行われて、人を大切に思う気持ちが十分にあったとしても、
何かの拍子にバランスが崩れ、自分は疎外されていると感じたりもします。
そんな時に誰かが傍に寄り添っていれば、つまり無条件で味方である人がいれば、
たいていの人は孤独には陥らずに、バランスを保っていられるのですが、
ここで正しいとか間違っているとか言われると、バランスは崩れるのです。

人は常に正しいことだけをして生きているわけではないし、間違いも多々犯す。
家族とか仲間とかは、たとえ判断が間違っていても味方である必要があるし、
間違えてしまった場合には、どうすればいいかを本人と同じレバルで考えて欲しい。
おまえは間違っているからと突き放せば、孤立して暴力に走る可能性も高まるし、
疑心暗鬼の不安は、どんな人の意見も敵対的に受け取るようになるのです。
問題を解決するためには、そうした人間理解から始める必要があるでしょう。

今回の事件は何が悲惨かといって、どこにでもいそうな不良少年が、
あまりにも残虐な事件を起こしてしまい、皆が呆然としていることでしょう。
被害にあった13歳の少年は、ひとりで家計を支える母親の助けをして、
兄弟に面倒もよく見る、学校でも人気者の少年だったと報じられています。
何も言わなくとも、お互いに励まし合っていた母と子の絆が切られ、
母は自分が子どもの面倒を十分に見られなかったことを、生涯悔やむでしょう。
僕にはそのことが、何よりも悲しいことに思われるのです。