もう一つの自由

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先日自然農の座学勉強会で、気になる発言がありました。
「“自由”には、何かからの自由と、絶対的自由がある」と言うのです。
家に帰って考えながら、辞書を開いて意味を考えてみますと、
確かにこの言葉には、freedom と liberty の二つの意味があります。
freedom の方は、好ましく、温和で、気ままな、やさしい印象ですが、
liberty の方は、制約されない、負債のない、解放された、と言う感じで、
どちらかと言えば、社会的な意味での自由さを示しているようです。
だけど勉強会での発言内容は、どうもそんなことではなさそうでした。

発言した通称デンさんは、鈴木大拙の説から学んだとして、
日本の“自由”には、西洋の言葉にはない意味が含まれていると言います。
いわゆる仏教用語にある、「自ずからに由る」ところの自由であり、
自然農が寄り添う自然、「自ずから然り」に通じるところの自由です。
そしてどうしてこんな話題になったかと言えば、人間の不自由さとして、
様々な社会的価値感や常識に縛られており、こうしたものは絶対的ではない、
僕らはもっと絶対的な価値を求めて、考える必要があるということでした。
絶対的価値とはいったい何か、これがどうにもわかりにくい。

有名なフロムの「自由からの逃走」によれば、人は社会的生き物であり、
絶対的自由など求めていない、と言う側面も認めなければならない。
絶対的でない自由とは、他者との繋がりを持ちながらの自由となるので、
その中には必然的に、相手のために自分を抑制する不自由さがあるでしょう。
つまり人が求める自由とは、決してあらゆるものからの自由ではなく、
自分を繋ぐ様々な絆を認めた上で、達成する自由である必要があるのです。
このままでは言葉の矛盾というか、自由も不自由なものになってしまいますが、
そこで考えられるのが、“止揚”という考え方の態度です。

止揚弁証法の説明で、使われることが多いようですけれど、
もっと素朴に言葉の意味を考えるとき、在るものを否定するのでなく、
そのまま受け止めておいて、肯定的に揚げていくものと考えられるのです。
人の暮らしにおける様々な拘束や縛りから、解放されようとするのではなく、
在りのままに受け止めた上で、そこから自由になると考えるのです。
弁証法の場合は一旦否定しますが、否定すれば他のものが必要になるので、
そうした縛りをすべて受け入れてしまい、脱ぎ上がる感覚です。
常識も社会的縛りも受け入れながら、自由に生きてしまうのです。

そんなことをすれば、社会的逸脱者になってしまうと思われるなら、
それもまた受け入れて、悠々自在の自由人になってしまえばいいでしょう。
心のままに生きれば、確かに人とぶつかることもありますが、
逆に人から支持されて、新しい可能性が生まれることもあるのです。
社会を変えていけるのが、ばか者とよそ者とはよく言われることですが、
これも同じことであり、大切なのはどんな理想を持つかでしかありません。
常識を捨て人とぶつかったときに、その真価は問われるのであって、
生き方に芯があれば、案外理解されるのが人間だと思うのです。