最後はミドリ米

イメージ 1
 
いったい何をやっているのか?、ってくらい、
毎日わけのわからないことで、時間が過ぎていく。
本当は何かしなければいけないのだ、と考えてしまえば、
無駄なことばかりやっている、と思ってしまう。
だけどありがたいことに、何をしていても時は過ぎて、
やがて死んでいく、とわかっているのだから、
僕らはその限られた時間を、味わって生きるしかない。

物心付いてからでさえ、半世紀以上を生きてきて、
その全体に何があったのか、つらつら考えてみても、
あまりに多くのことがあった気もする、なかった気もする。
貴重な自分の人生も、先が見えてきているとするなら、
その貴重な時間に何をすればいいか、考えずにはいられない。
だけどそもそも人生ってやつには、何か特別に、
やらなければならないことが、あるはずなのだろうか?

ブログによって、日々の記録を続けてきたことで、
得たものは確かにあるし、失ったものはそう多くはない。
日々のルーティンを振り返り、生き方を振り返って、
より良く生きるためには、どうすればいいのかと考える。
学校の問題と違って、正解があるわけでもないし、
あるときの答えは、別のあるときには間違っていたりする。
そんな繰り返しが、生きていることだと学んできた。

だからどう生きたいのか、問題はいつだってこれだ。
その年の種籾の選別をしながら、苗床に種下ろしをしながら、
苗床で草の世話をしながら、苗を田んぼに植えながら、
田んぼの草の世話をしながら、稲刈りをしながら、
ハサ干し、脱穀、トウミ掛けをしながら考えてみる。
自分はどう生きたいのか、人はどう生きればいいのか?
そして半世紀にわかったことが、一つだけある。

人はどのようにでも、好きに生きればいいのだけど、
できることは限られているから、精一杯に生きればいい。
何をするにも、自分の命が持てる力を出し切って、
やれるだけのことをやって、命尽きれば死んでいく。
今年も4月に種籾の選別を初めてから、7ヶ月が過ぎて、
11種類のお米も、昨日のミドリ米で稲刈りまで終わりました。
今月中にはすべての米の、籾摺りまで終わるでしょう。

やりたいと思うことだけやって、半世紀以上を生きてきて、
思うようにできたことなんて、何もなかった気もします。
人生の岐路みたいな場面も、実は何度も何度もあったけど、
そのつど今の自分がこうなるように、選択してきたのだと言える。
つまり自分の人生は、自分が望んだようにしかありえないので、
いとおしくもあり、笑っちゃうしかない気もしますが・・・
そしてまた新しい明日に、米作り野菜作りを始めるのです。