常に問題は自分にあり
昨夜行われた自然農全国実践者の集い、「妙なる畑の会」打合せでは、
生き方としての自然農とは何かを問い直すような、根元的な話が白熱しました。
きっかけは(道案内をどうするか)と言う、小さな課題だったのですが、
ほとんどの人が必要ないと思った中で、わずかに(やりたい)と思った人がいて、
そうした少数者の意見を(切り捨てる?)のかどうか、から始まりました。
生き方としての自然農とは何かを問い直すような、根元的な話が白熱しました。
きっかけは(道案内をどうするか)と言う、小さな課題だったのですが、
ほとんどの人が必要ないと思った中で、わずかに(やりたい)と思った人がいて、
そうした少数者の意見を(切り捨てる?)のかどうか、から始まりました。
この問題は単に(道案内をどうするか)にとどまらず、託児の問題や、
拡大説明会の問題など、今までに何度かあった(在り方)の確認でもあります。
僕ら自然農から生き方まで学ぼうとする者にとっては、そのやり方にも、
矛盾するようなことがあっては、人として不誠実ではないかと考えるわけです。
聞く人によっては些細なことに思うかも知れませんが、どんなときであれ、
矛盾なく生きることは、生き方を真剣に考える者にとって大切なことなのです。
そこで出席者全員は素通りすることなく、この問題を話し合いましたが、
こうした個人の価値感による温度差の問題は、正解があるわけではありません。
(やればいい)とか(やらなければいい)、と言った判断はできないので、
(やる)か(やらない)かを決めて、それをみんなで共有するしかないのです。
ただしこれを納得できるには、自分がどのようにかかわってきたのか、
(自分がやるべきことをやったのかどうか)が、とても重要な鍵になります。
自分が最善を尽くしたことは、たとえ思う結果にならなかったとしても、
それ以上のことはありえないのだから、自分と結果に対して納得できるのです。
納得できないとすれば、それは他者に対しての不満を持つことになりますが、
他者はいつだって自分とは違うので、同じ理想を持つことはありません。
辛うじて共通の目的を持つときも、それは一つの共有幻想に過ぎませんから、
僕らは幻想を幻想だと理解した上で、一緒に活動するしかありません。
考えが同じでない人が、なぜ一緒に活動する必要があるのかと言えば、
僕らは現実に様々な違う考えの人と一緒に暮らし、社会を形成しているので、
この多様性のある現実の上で、最善の活動を目指す必要があるからです。
当然意見は一致しませんが、「個々違って皆一緒」と考える自然農にとって、
それぞれの人が違う意見を持ちながら、共通した目的に向けて一緒に活動する、
と言うことを客観的に理解して、お互いに協力する必要があるのです。
同じ理想を持つ人の違う意見を聞ける機会は、なかなかありませんから、
こうした意見交換の場としても、僕らの(場)は貴重な価値を持っています。
3時間あった打合せ時間の半分近くを、こうした意見交換で終始してしましたが、
こうした問題を素通りしないことは、重要なことだと了解しているので、
参加者は皆熱心に話をして、貴重な時間を過ごしたと思うのです。