自然受精できない時代
すでに早生品種では、稲刈りが終わっているところもありますが、
自然のリズムで栽培する自然農では、まだ稲刈りは始まっていません。
ミドリ米のような遅いものは、まだ分蘖が終わったばかりで、
これから秋が深まると共に、大きくなるのが楽しみな品種なのです。
そして多くの品種では今が出穂で、ちょうど可憐な花が咲く時期なので、
田んぼには入らずに、遠巻きにして花や稲の様子を見ています。
自然のリズムで栽培する自然農では、まだ稲刈りは始まっていません。
ミドリ米のような遅いものは、まだ分蘖が終わったばかりで、
これから秋が深まると共に、大きくなるのが楽しみな品種なのです。
そして多くの品種では今が出穂で、ちょうど可憐な花が咲く時期なので、
田んぼには入らずに、遠巻きにして花や稲の様子を見ています。
写真は香り米の花で、小さな稲穂の一粒ずつに咲いているのですが、
蝶やトンボが、この花の周りを飛び回って彩りを添えていました。
天候不順と言っても、砺波平野はいつのまにかすっかり秋で、
呉羽梨、ブドウ、イチジクといった果物も、実りを迎えているようです。
動物はすっかり少なくなったとは言え、時々見かけてはいますが、
もっと心配なのがミツバチや、地面の小さな昆虫たちです。
野菜など品種によっては、人工授精しないと実らないものがあって、
人間界でも子作りするのに、自然のままでは出来ない人が増えているとか。
見かけは立派な体でも、何かが不自然になっているのではないのかと、
恋愛から子作りまで、心配しないではいられない時代なのです。
「命短し恋せよ乙女」と歌われて、恋愛が人生の華だった時代は去り、
命がけの恋愛よりも、お金を掛けて遊び回る方が楽しくなった時代です。
理由は違うようでありながら、同じ時代に起きている現象ですから、
どこかで何か、繋がっているのではないかと思われるのです。
夢とロマンなんて、子どものマンガの世界にしかなくなったのだとしたら、
それはあまりにも寂しいし、人間は貧しくなってしまったに違いありません。
どうして僕らはもっと自由に、自らの内なるものに向かって生きる、
そんな社会を育ててこなかったのか、そんな人生を選択しなかったのか。
人が人生において求めるものは、目先の利益であってはつまらないし、
何をもって価値とするか、コマーシャルによって決めて欲しくはありません。
常に真実を求め、善きことをなして、美しく生きられるように、
僕らは学校で知識を得て、一個の自立した人間となっていくのです。
自立した個人が作る社会であれば、社会も自立することができるはずで、
人間力で自立した社会は、お金や武力で作れるものではないのです。
お金や武力ができることは、何かを破壊することだけですから、
もしもこうした力によって何か求めれば、どこかで必ず何かが破壊される。
武力もお金も規模が小さいときには、便利な道具でもあるのですが、
規模が大きくなれば危険になり、過剰になれば取り返しのつかない破壊が起きる。
僕らはこの事実を冷静に認識して、お金も武力もなるべく少なくして、
自然に近しく質素に暮らすことで、人の幸せを増やすことができるのです。