大和が破れるとき

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伊勢神宮の参拝者
 
日本人を単一の大和民族と言うとき、人種的には多様なはずなのに、
どうしてそんな言い方をするのか、長いあいだ不思議に思っていました。
それがあるとき農作業中に、急に腑に落ちる考えが浮かんだので、
真偽のほどはともかく、一つの考え方のヒントとして書いておきます。

そもそも大和とは、その言葉の意味からしてある種の大同団結で、
これを遺伝学的な種の分類と考えると、その時点で間違えてしまいます。
実際に日本の歴史を見ても、次々に多くの民族が大和に組み込まれ、
結果として単一民族であるかのように、団結心が強くなりますが、
その根底にあるのは、人種としての民族ではなく大和心の一致です。

極端に端的に言ってしまえば、和を持って尊しとする考えに共感して、
様々な思想信条を持った人々が和し、これを尊重して生きている。
この総体を大和と考えると、多くのことが腑に落ちて整理できるし、
いくつもの大和民族の謎が、全体にほぐれてきて正体が見えてくる。
例えば普段は穏やかな日本人が、なぜ戦争になると残忍性をあらわして、
考えられない非道なことを、やらかしてしまうかも説明が付くのです。

和をもって尊しとする日本人にとって、平和な状態が勝利であって、
平和が破られてしまうと、それ自体が敗北であって喪失なので、
人々のタガが外れてしまい、普段は考えられないことをやってしまう。
それはもう理性とは違う世界なので、どんな異常なことも平気でやって、
場合によっては残忍極まりないことも、誰でもできてしまうのです。

しかも日本民族は、古くからそうしたことを自認しているからこそ、
和の統一のために行った非道を、実は心苦しくも思っている。
それ故に多くの人は、自らの非道な行いは黙して語ろうとしないし、
周囲の人もその気持ちを察して、無理に語らせようとはしない。
このあたりにも暗黙の了解があって、語るよりも祈ることで、
自らが求めているのは、大和心であることを吐露しているのです。

大和を大切に思うからこそ、ひとたび平和が破られてしまえば、
そこには理性も人道も何もなくなって、ひたすら和を取り戻そうとする。
だからこそ人々は、いのちも惜しまずに戦うことを受け入れるし、
例え少ない兵力でも、徹底して戦うことを当然のこととして考える。
そして平和が戻れば、戦争など無かったことのように穏やかになるのです。

日本の天皇家は、こうした事実を歴史的に知っているからこそ、
過去において成敗した一族の念を忘れることなく、鎮魂に努めている。
和を持って尊しとする和が損なわれると、狂気のように荒れ狂い、
ふたたび平和が訪れれば、どんな人も分け隔てなく受け入れるのです。

大和は危機に際してこそ団結し、あらゆる不和を蹂躙しようとする。
だからこそ僕らは、紛争を排して平和を求め続けるのであって、
平和を失えば、大和は恐ろしい姿を見せることになるのです。