視線による会話
日本の文化では、視線は大切な要素です。
特別に好きあった男女か、親しい関係でないと、
視線を合わせただけで、眼付けと言って嫌われます。
街でうっかり視線が合えば、さりげなく逸らすし、
相手をジッと見るのは、失礼な行為でさえある。
ところがこれは、日本独自の文化的要素なのです。
特別に好きあった男女か、親しい関係でないと、
視線を合わせただけで、眼付けと言って嫌われます。
街でうっかり視線が合えば、さりげなく逸らすし、
相手をジッと見るのは、失礼な行為でさえある。
ところがこれは、日本独自の文化的要素なのです。
例えば欧米のみならず、日本以外のアジアでは、
会話するときに、相手の視線を正面から見据えます。
あるいは街で出会った人も、平気で見詰めるし、
礼儀として視線を外すような、特別な行為はしない。
この独特な礼儀は、空気を読むことと同じように、
僕らはいつのまにか、当たり前に身につけているのです。
例えストレートに見詰めなくても、その視線の先に、
何があるのかによって、心を読むことさえ出来る。
見る聞く嗅ぐ触れる味わう、と言った五感などでさえ、
少し距離をおくことで、微妙に深く感じ取る。
感じ取っていながら、素知らぬ態度で居ることが、
成長した人間の、大切な礼儀になっている。
日本文化にある、そうした五感の研ぎ澄ましは、
例えば活花のように、あるいはお茶のように、
究極は日常動作にさえ、礼儀を探求するようになる。
何々道と称する多くの流派が、単に技術ではなく、
行き着くところは生き方となり、あらゆる所作が決まる。
この研ぎ澄ましが、日本文化の奥義なのでしょう。
あらゆる流儀が、道を究めようとするから、
大勢の人がひしめく社会でも、一定の距離が守られ、
袖触れあうことさえ、何かの縁だとして考える。
ジッと見詰めることは、愛情か怨みか親しみか敵意か、
よほど強い感情がないと、失礼になるのはそのためです。
見て見ぬ振りも、必要なことになっているのです。
その上で、特別な心を相手に気付いてほしいとき、
音や匂いでは、相手を特定できにくいですし、
触感や味覚では、ちょっとぶしつけになってしまう。
うまく二人きりになれないときに、気付いてもらうには、
視線で語りかけるのが、一番確実で手っ取り早い。
視線をうまく使えば、どんな感情でも伝えられそうです。
もうほとんど、失われてしまったかも知れませんが、
男女が混浴の温泉で、お互いに見詰めない暗黙の了解や、
開こうとすれば開く襖戸で、見知らぬ男女が平気で眠れる。
こうした目に見えない枷があって、それを破るときは、
また破り方の礼儀があるのが、日本文化の面白さでしょう。
そんな機微は、わかる人も少なくなったようですが・・・