もっと対話する社会へ!

イメージ 1
 
「対話」というものを、意識するようになったのは、
9.11NY事件の後、市民活動に加わってからのことでした。
それまでの仕事で必要だった、コミュニケーションの多くは、
会社や上司の考えを、的確に理解して行動することで、
良いアイデアを求められることはあっても、対立はしませんから、
会話することはあっても、対話することはなかったのです。

いちおう会話と対話を、簡単に分けて認識するなら、
会話は同じ価値観の人が、対立しないように話をするけど、
対話の場合は、違う価値観の人が意見を出し合って議論します。
これが特定の議題で、意見を集約しようとするのが会議で、
集約できなくてもいいから、意見を戦わせるのが討論でしょう。
一般的な日本の会社社会では、会話や会議はありますが、
対話や討論は、原則的に求められていないのです。

KY(空気読めない)は、人をバカにした言葉ですが、
上手に空気を読んで、会話や会議をしている限り、
新しい意見は出ないので、対話や討論にもなりえません。
市民活動の場合は、特定のミッションこそありますが、
参加者には上下関係も力関係もない、これを原則としますから、
会社の会議のように、意見が集約されることも希なのです。

そもそも市民活動では、必ずしも話はまとまらなくていい、
むしろ少しでも多くの違う意見が出て、相手の話を理解しながら、
自分の話も理解してもらう、これが主眼と言っていいでしょう。
そうした対話の中でこそ、今までにはない新しいものが、
見えてくる可能性も高く、それこそが対話する価値なのです。
ただ仲良しの会話ではなく、意見集約の会議でもない、
違う価値難の人と対話することで、新しい世界を開くのです。

だけど残念ながら、日本人は詰め込み教育の成果なのか、
自分で考える対話が苦手なようで、違う意見を受け容れにくい。
何が正解か、少なくとも方向性が決まっている議論なら得意なので、
利益追求などの目標が決まっていれば、アイデアを出しますが、
新しい時代を切り開くような、価値感を問われても議論ができない。
利益を追求しないような、違う価値感が受け入れられないのです。

それでも時代は変わり、少なくとも「より大きな利益」だけでは、
納得しない人が増えてきて、社会に対話が求められているのです。
ソクラテスの昔から、対話で新しい時代を切り開いた西洋人に対し、
日本人は八百万の神のもと、対立しないことを良しとしてきて、
単一民族なんてことさえ、もっともらしく言われるのです。
さらに多様な国々と付き合って、国際社会の一員になるなら、
対話が出来る国、対話できる国民・市民になる必要があるのです。

自分の意見ばかりに夢中にならずに、人の違う意見も聞いて、
間違った意見だと思っても、なぜそんな意見が出るのかを考える。
するとたいがい、そこには理由があるはずですから、
その理由を理解できれば、相手の意見も理解できるのです。
お互いに理解し合ってから、合意形成を目指すならそれもいいけど、
問答無用や多数決で意見を押しつけても、禍根を残すばかりです。