見上げる姫を
もうすぐ1歳と1ヶ月になる姫は、自由に歩き回り、
あっちで引き出しをあけては、中のものを引っ張り出し、
こっちで扉を開けては、何でも引きずり出しています。
妻はそれが不満な様子で、怒ったり諭したりしていますが、
まだ日本語が通じるわけではないので、僕は静観して、
姫が飽きた頃を見計らい、さっさと片づけて終わります。
あっちで引き出しをあけては、中のものを引っ張り出し、
こっちで扉を開けては、何でも引きずり出しています。
妻はそれが不満な様子で、怒ったり諭したりしていますが、
まだ日本語が通じるわけではないので、僕は静観して、
姫が飽きた頃を見計らい、さっさと片づけて終わります。
僕はサラリーマンではないし、定職らしいものはないので、
農作業のない冬の季節は、けっこう暇な時間がある。
と思っていたら、意外と自由な時間がないことに気付き、
この貴重な時間を、何に使えばいいのかと考えます。
だけどそうした合理的な考えこそ、自分を窮屈にする、
と気付いて、今ではあまり合理的には考えません。
合理的に考えないで、どのように考えているのか?
まだうまくは言えませんが、どちらかと言えば直感的に、
自然と向き合う中で、感じたように考える意識があります。
感じることと考えることを、どちらも優先させずに、
渾然一体となって、自分の中に育てていくことにより、
常識の枷を越えた感性に、近づける気がするのです。
どうしてそんな、ややこしいことをしているのか?
と言えば、社会の中で作られた常識に縛られていると、
目隠しされた馬車馬のように、前しか見えなくなるからです。
前だけを見て努力することは、無駄が無くて合理的ですが、
その道筋を選ぶ御者に、自分を全面的に預けてしまい、
自らの判断を失って、無責任な人間になりかねないのです。
生まれたての赤ん坊なら、全面的に自分を預けて、
親に頼ることで、命を維持していくことになるでしょう。
1歳を過ぎて歩くようになっても、この姫のように、
大きな親を神のように、恐れ敬い信頼して生きていく。
このような状態は無垢ではあるけど、自立していないので、
どこかで新たな神を見つけ、自我を育てていく必要があります。
人間の大人であれば当然のこと、自分の判断基準を持って、
どんな状況にも、どうすべきかを考える人である必要がある。
日々の暮らしの中で、夕食を優雅にいただくコツは、
自らの生涯をどのように生きるか、自覚を持って暮らすこと。
信頼すべきものは、心から信頼して命をも投げだして、
信頼されることに対しては、命を賭しても応えることです。