「やまと言葉で哲学する」

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現代日本で代表的な哲学者のひとり、竹内整一さんが書かれた、
やまと言葉で哲学する」を、興味深く読んでみました。
一見難しそうな題名ですが、副題に強く引かれたのかも知れません。
「(おのずから)と(みずから)のあわいで・・・」とあって、
なにやらピンと来るものがあり、これは読んでみたいと思ったのです。

取り上げられていた言葉は、「ありがたい」「めでたい」「あう」
「あいする」「しんずる」「たのしい」「おもしろい」「あそぶ」
・・・から始まって「はやい」「あきらめる」「あやまる」「はずかしい」
「やさしい」「おどろく」「かんがえる」「におう」まで多彩ですが、
多くの言葉は、漢字で表現すればいくつかの意味を持っているのに、
本来の“やまと言葉”では、一つの音で一つの意味だったようなのです。

中国から来た漢語により、表意文字であらわすときには、
本来一つの意味だった一つの“やまと言葉”をいくつかに分けて、
いわゆる同音異義語として、意味ごとに使い分けてきたと思われます。
ところが漢語では違う意味のことが、“やまと言葉”では同じ意味の要素で、
一つの言葉が様々な様相を同時にあらわす、複合的な意味だったから、
近世の西欧言葉による新しい言葉も、同じように取り込めたのでしょう。

問題は“やまと言葉”が持つ、複合的な意味の理解の仕方で、
竹内さんは昭和の初めの物理学者、寺田寅彦の言葉を引用しながら、
「天然の無常」という言い回しで、複合的意味の秘密に迫ります。
日本では長い歴史の中で、何度も繰り返し天変地異があって、
これが「遠い祖先からの遺伝的記憶」になっている、と指摘した上で、
自然に対する意識の特殊性に、注目して言及していくのです。

自然界がもたらす地震、台風、洪水、疫病、旱魃といった災いは、
豊かな自然に頼らざるをえない人間生活と、同時にあるものと認識する。
(おのずから)は自然界の動きで、(みずから)は人間の動きなのに、
この両者は分かちがたく、深いところでは繋がっているのかも知れません。
日本人は人智の及ばない天災を受け入れ、無常を感じているのですが、
天然の無常としては、ありがたく受け入れてさえいるのです。

自然界との対決姿勢で打ち立てられた、西欧の文明と違って、
日本のやまと文化は、悲惨な自然の災害に揉まれながら自然を愛でる、
ある種の諦念によって、深まりを得ているのだと思われるのです。
豊かさは限りなくあるのではなく、どこかで限界があると知るからこそ、
有限の中に様々な価値を見出しながら、日常を愛でて味わって暮らす。
日本の優雅な豊かさは、西欧の豪華な豊かさとは求めるところが違っている。

少しでも多くの富を手に入れて、人々が豊かになると思う西欧に対し、
やまと文化では、質素で質実な暮らしの中で自然を愛でるのはそのためで、
この違いがわかっていれば、経済成長も原子力発電も必要ないのです。
世界中から日本文化が注目されながら、現在の日本がやっていることは、
勘違いも甚だしく、西欧化した強欲の走りでしかないのが残念です。