騙される側の責任

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参議院選挙が始まっていますが、またしてもこの国に軍隊を持たせ、
戦争の準備をしようとする人たちが、過半数を超えそうな勢いです。
はたして有権者の人たちは、それを望んでいるのでしょうか?
もっともらしい言葉に騙されたくて、事実に目をつむるのでしょうか?

かつての戦争がもたらした、悲惨な苦しみを繰り返さないためには、
何事も他人の所為にするのではなく、自らの責任を持って判断する、
強い意志と真実を知る努力がどれほど必要か、今こそ考えるべきです。
憲法を変えて軍隊を持つと明言している政党に、一票を投じることは、
多くの日本人戦後70年の努力を放棄して、同じ過ちを繰り返すのです。

過去の戦争を経験した伊丹万作は、政治家に騙されないためには、
どれほど強い意志が必要かを、的確な表現で書いています。
今日は少し長い文章になりますが、これを掲載しておきますので、
少しでも多くの人に、騙されないことの難しさを考えていただきたい。

以下、伊丹万作の言葉です。
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 多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。
私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。

 ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。
多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、
それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、
軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。
上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。
すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、
わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。
しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、
いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだます
というようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて
互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、
さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的に
だます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないような
こつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。
普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、
だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、
苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、
直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、
あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、
あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも
接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が
相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。
そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が
相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。

 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、
古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、
無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。
我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。
これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。
つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。

 だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らない
ということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるもの
と考えるほかはないのである。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、
あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に
自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが
悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も
独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実と
まつたくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも
密接につながるものである。 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり
人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。
ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。
しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、
彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは
永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる
多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
 
(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)