東京では東京新聞だけ?

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社会にインターネットが始まって、もう20年近くになりますが、
少し早く始まった携帯電話と合わせて、世の中は大きく変わりました。
一番大きく変わったのは、新しい人間関係構築の広がりと、
古い統一メディアであった、新聞テレビの著しい衰退でしょう。
昔は企業か政党結社か、それに繋がる団体でもなければ広がりはなく、
何か特定の目的や目標を持って、一般人が集まることはなく、
全国競技の優勝者や名人と言った、よほどの有名人でないと難しかった。

それが今では、様々な目的を持った人たちが自由に集まり、
あるいは共通する感性で、自由な表現活動が出来るようになって、
メディア・リテラシーという、以前にはなかった常識まで登場します。
僕らはそんな新しい社会に生きて、新旧のメディア活動の中で、
自分に合った情報を取り出し、自ら関わりながら育てあっているわけです。
ところが今でも、かなり多数の人が古い統一メディアを信じており、
これが強引に社会の動向を左右して、おかしな事が起きています。

例えば新聞報道などを見る時に、昔であれば朝日新聞を読めば、
いわゆる文化人が何を考えているか、およそのことはわかりました。
日経新聞を読めば経済状況はわかるし、朝日、読売、毎日、日経を読めば、
日本と世界の動向から、知識人の様々な判断までがわかったものです。
ところが気が付いてみたら、こうした知識人には偏向した価値感があって、
既存の経済社会や、既得権の世界を守ることをあたりまえに思っている、
おかしな常識が、何の疑問もないかのように通念化していたのです。

日本の常識は世界の非常識!、と言われた時期もありましたが、
そもそも世界の常識とは何か?、マスコミは自分たちの都合がいいように、
不都合なことは報道しない、疑問を感じさせない報道をしてきたのです。
原発の是非は報道されずに事故が起き、経済成長の是非は問われずに、
貧富の格差は日増しにひどくなる、異常な社会が当たり前になってきています。
問題の原因を問わずに、目先の解決策ばかり報道しているから、
次々に新しい問題が起きて、報道する材料にも不自由しない構図です。

それでも現代社会は、いくら臭いものには蓋をしようとしても、
インターネットと携帯電話で始まった、新しいメディア情報によって、
政府マスコミに不都合な事実が、情報として次々に明るみに出てきます。
秘密にしておきたい情報さえ、いつのまにか配信されてしまうのです。
つい先日も、3Dプリンターで作れる拳銃の情報が世界に流出して、
世界中を騒がせる大問題になったことも、現代ならではの現象でしょうし、
これを完全に封じ込めることは、ほとんど不可能な時代なのです。

そして先日は中部大学の武田邦彦教授が、福島集団疎開裁判に関して、
また興味深いコメントを出していたので、紹介しておきましょう。
内容は下記のサイトで、直接見ていただければいいのですが、
http://takedanet.com/2013/05/post_2486.html
朝日、読売、毎日、日経の各新聞が、なぜ福島集団疎開裁判を報道しないか?
その理由を「危険なことは報道しない、大きなことは報道しない」からだ、
と断じて、大新聞のおごりを批判しているのが、興味深いところです。