触れる文化

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日本文化の特徴は、あれこれ言われていますが、
一番面白いのが、触れる感覚にあるように思います。
日本語には、他の原語には見られない擬音語が多々あって、
ネチネチ、クチャクチャ、ネトネト、ビチャビチャ、
あるいはカチン、グキッ、スポン、ポカンなども含めて、
理論的な表現では説明できない、微妙な状態が表現できる。
こうした微細な擬態語を操れるのは、日本人だけだとか。

クール・ジャパンの代表的な、アニメの世界でも、
視覚表現を大胆に補完しているのが、この擬音語です。
ズドーン!、ボカーン!と言った大音響ばかりではなく、
“ポッ”とか“シーン”とか、色や静けさまで音で表しますし、
しかもこの擬音語で表現された感触は、実際の感覚と、
100%近い一致があるというから、すごいことなのです。
例えば“ベチャベチャ”と言う擬音語から、感じ取る内容は、
日本人であれば、ほぼ全員が同じ感触を受け取ると言うことです。
 
日本の伝統的な文化でも、着物の風合いなどから始まって、
木の感触や紙の感触、織物の感触などが質の良し悪しを決めるし、
この感触の正確さによって、伝統工芸の技も伝わるし、
中小の工作機械工場が世界に誇る、匠の技なども生まれます。
和食の板前による、みごとな包丁さばきも触覚によるものだし、
ヒヨコの雌雄を見分ける指先感覚など、日本人独特のものなのです。
食器や箸を、自分のものでないと落ち着かない感覚も、
湯飲みに取っ手がないのも、飲食感と触覚が繋がるからでしょう。

こんな微妙な触覚文化は、四季の風や水との触れあいから生まれ、
長い年月を掛けて、優雅に育てられてきたものなのでしょうが、
現代ではディスプレイの隆盛によって、視覚文化に変わってきました。
昔は同じ黒でも、肌触りの風合いによって見分けた違いが、
今では単なる明度や色の違いで、機械で計れるものになりました。
指先の微妙な感覚であったものが、次第に失われていくのです。
あらゆる情報はデジタル化されることで、風合いを見失い、
優れたものなどない、均一な品質で味わいを喪失するのです。

こうした触覚文化の喪失に対して、抵抗するサブカルチャーは、
テレビよりもラジオを愛し、科学よりもアニメを愛する。
触れることなく購入する通販を嫌い、自分の手で触って選ぶ、
フリーマーケットなどが、再認識されてきているのです。
昔は何にでも触って、誰にでも触られて育ってきた子どもたちは、
今では不潔だからと言われて、自由に触ることを咎められ、
触れあう喜びを知らないままに、大人になってしまいます。
素肌感覚こそが、新しい時代の要請になるのかもしれません。

触れることによる、微妙な感覚をもう一度取り戻して、
いのちをより身近に感じ、味わいのある人生を過ごしたい。
春に風を感じ、夏には水を感じ、音によって感じる秋でさえ、
それぞれの触覚が思い出されるような、日本の文化。
単なる形骸化した祭りではなく、込められた本当の価値を、
僕らは見失うことなく、継承して人生の喜びとしたいのです。
シャラシャラと、冬に向かう木の葉の戯れのように・・・