昨日のことさえ

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丸山圭三郎の「過剰」に共感してから、すでに十数年になりますが、
世の中益々あらゆる物が過剰になって、特に情報量の過剰には、
拒否反応を通り越して、反応が麻痺してしまったような状況です。
インターネットやツイート、フェイスブックなどを使っている人なら、
毎日繰り返される膨大な情報の垂れ流しの中で、深く考えることを忘れ、
まして自らが工夫した対応などせず、ひたすら反応を繰り返している。

こうなると、自分の考えなどどこにあるのかないのかわからない、
なんでも「いいね」で済ませてしまうような、思考回路が出来てしまい、
意見を求められても、ありきたりのことしか言えなくなってしまう。
そうした軽薄なコミュニケーションを利用して、情報操作が行われると、
マスコミばかりではなく、インターネットもポピュリズムの温床になって、
真実を省みない思考が、広く社会の常識のように蔓延していくでしょう。

12年前に新聞を読むのを止めて以来、今ではテレビも見ないのに、
マスコミ情報はネットを通じて流されるから、防ぎようもないままで、
どこまでが事実の情報か、どこからが意図的な意見なのかも見分けにくい。
こんな情報の過剰な中で、さらに高速で便利な機能を追い求める人は、
自分がどれほど機能に対応できているのか、わかっているのでしょうか?
見ている限りでは、使いこなすよりは使われている感じがします。

これはイリイチが道具の規定の中で、人間が自らを助ける物を道具とし、
人間が相手のやりかたに合わせないと使えない物は、機械として分類した、
人間の道具とそうでない物の分類に、同じように当てはまります。
元々は人が使うことで役に立っていたのに、過剰と共に意味が変化して、
気が付けば人間が機械の下部になるように、情報の下部になっている。
情報バブルのような世界で、膨大な泡の中に溺れている人がいるのです。

他人事ではなく、僕らは今もこうしてネットを開く度に見せられる、
たとえばYahoo!のトップページで、大勢の人たちの生活に関わることも、
どうでもいい芸能人の離婚も、同じバリューで見せつけられます。
政治も経済もスポーツも、「女は男の体臭が好きか?」なんてことも、
並列の価値観の如く並んでいるので、難しいことは後回しにされる。
そして次々に出てくる新しい話題によって、何も考えなくなってしまう。

昨日関心があったことが、今日はすっかり忘れて新しい話題を追いかけ、
それを繰り返す毎日の中で、何か大切なことを置き忘れた気がするのです。
実際には何も変わらないのに、情報が変わることで変化した気になって、
自らが失われていくことを、何かが足りないのだと誤解してしまい、
幻をひたすら追い求めている典型的な現代人の姿は、滑稽でもあるのです。
過剰な情報に振り回されなければ、満ち足りた命であるものを・・・
 

画像はニューズウイークから拝借。