大都市への違和感

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新緑の萌える5月は、新しい命が満ちあふれ、
何をするにも気持ちのよい、さわやかな季節です。
上旬には天気が激変する日もありましたが、
中旬にはそれも落ちついて、今は毎日が気持ちいい。
自然と早起きする日が多くなって、5時過ぎに目覚め、
6時には朝食を食べて、農作業に出掛けていきます。

10年前から自然農をしている、頼成田畑のほかに、
2年前からは、福光「馬畑」で豆と野菜を作っているし、
今年からは新たに、岩屋での米作りも始まりました。
過去にはサンタの森や、庄川付近でも手掛けましたが、
様々な事情で続かなくなり、今は3箇所でやっています。
この3箇所は、それぞれ違う自然農の仲間と組み、
いつのまにか僕は、指導するような立場になっています。

2002年に石黒さんとの出逢いから、自然農を始め、
今年11年目ですが、自然農は僕を大きく変えてきました。
人間が生きることの意味を、自らの暮らしをもって考え、
自然界を、人間に都合よく変えてしまうのではなく、
人間も自然の一部として、自然と調和して暮らしていく。
こんな当たり前のことが、見えなくなっていた理由は、
どうも都市生活者中心のマスコミに、原因がありそうです。

先日流山市の市議会議員を迎えて、勉強会をしたときに、
流山市の目指す将来像の中に、第一次産業が見えない、
つまり人間に根元的な衣食住が、見えませんでした。
当然ながら、そんなものはお金を出して買えばいいと思い、
お金さえ稼げば、問題がないと思っているのでしょう。
これは流山市に限ったことではなく、東京をはじめ、
大都市とその周辺では、ほとんど疑問に思われることもない。

僕が田舎に来て、田舎の豊かさを認識したってことは、
実のところ、都市の貧しさに気がついたってことでした。
都市にはあるのは、イリイチが批判したところの、
学校と医療と交通網の集まりで、不自然な集合構造です。
この危うい価値観を、新聞テレビ雑誌と言ったマスコミで、
お金こそが豊かさだと信じ込ませることで、成り立っている。
豊かな田舎に住む人を、自分は貧しいと信じ込ませている。

こうした価値観の矯正的逆転が、人々を都市に向かわせ、
生活を維持する電力を賄うために、原発が必要だと思わせた。
原発事故で核被爆をしてもなお、原発が必要だと言い張り、
原発を否定するなら、代替え案を出せと言って開き直る。
大規模集積の都市を中心に考えるから、食もエネルギーも、
大規模に生産できなければ、賄えないと考えるのでしょうが、
真の民主主義を考えれば、大規模でない方がいいのです。

それぞれの地域で、地域に合った食とエネルギーを自給し、
千代に八千代に苔のむすまで、永続的に人々の暮らしを賄えばいい。
ところが今の時代は、都市へ人口集中をさせる便宜のために、
豊かな田舎から食とエネルギーを搾取して、廃棄物を押しつける。
こんな矯正的政策と宣伝を止めれば、都市は廃れるでしょう。
そこには生活の基本であるものが、何もないのですから、
せっせと稼ぎ消費しないと、生きている喜びもないのです。

ところが田舎では、何千年ものあいだ人を人を育んだ、
豊かな自然と、それを活かす技が満ちていますから、
無闇にお金を稼がなくても、ゆっくり豊かに暮らせます。
身近な人と助け合って、衣食住を賄いながら暮らすことが、
自然の恵みをさらに膨らませて、人間関係も和やかに育てる。
原発に替わるエネルギーがないなら、原発を動かせだなんて、
その発想自体がおかしいと、気付くことも出来ない人に、
この国の将来を、任せたいとは思われません。