人の世話をする理由
今年から新しく、自然農田んぼをやる場所で、
参加者に合わせて、区画割り作業をしてきました。
今回は下準備作業なので、作付けに直接関係はなく、
水捌けと区割りの、溝掘り肉体労働が中心です。
みなさん何かと都合があって、集まりは悪く、
その分を僕が肉体労働してきたのですが、
自分の作業は、まったく出来ずに終わりました。
これではいけないのですが、ついこうなってしまい、
疲れて、自分の作業が出来なくなったりするのです。
参加者に合わせて、区画割り作業をしてきました。
今回は下準備作業なので、作付けに直接関係はなく、
水捌けと区割りの、溝掘り肉体労働が中心です。
みなさん何かと都合があって、集まりは悪く、
その分を僕が肉体労働してきたのですが、
自分の作業は、まったく出来ずに終わりました。
これではいけないのですが、ついこうなってしまい、
疲れて、自分の作業が出来なくなったりするのです。
現代価値観では、バカなお人好しみたいなものですが、
自然農をやる人が増えれば、きっと環境も守られる!
そう思うと、ついつい人の世話をしてしまうのです。
同じ世話をするのでも、誰かの収入にでもなれば、
もっと喜ばれるのでしょうが、僕の場合は、
お金や収入には、あまり関心がないので、
やりたいことをやっていたい、だけでもある。
おかげで貧乏人ですし、何の名誉にもなりませんが、
感謝する心と満足は、不思議と我が身に広がります。
合理的に自分の利益を追い求める時代に生きて、
社会常識としての、経済的富というものが、
まったくもって胡散臭い、命の腐敗にしか思えない。
そんな状態で、大勢の人と付き合ってきましたが、
経済的富の魔力は大きくて、僕個人には、
とても太刀打ちできるものでは、ありません。
それでは打ち負かされてしまうのか?と思うとき、
物理学や哲学が、挫けそうな気持ちを救ってくれたし、
同じ心を持つ仲間がいることも、僕を強くしてくれます。
このところ連日の忙しさに加えて、肉体労働をして、
花粉症の症状まで出てきて、ダメージは大きい。
そのダメージに敏感に反応してしまう、僕の彼女は、
ふたりの信頼がいくら深くても、ご機嫌斜めで、
何でもネガティブに、否定的な発言が増えてきます。
それは僕自身の一部なので、僕自身も警戒的になって、
普段なら何とも思わないことを、否定的に見てしまう。
だけど僕は、根元的に知ってしまっているのです。
自然界にそのような価値判断は、何も意味がないことを。
それではいったい何をもって、意味とするのか?
僕はいのちある限り、自由を享受して自然と共に生き、
みんなが幸せになれる道を外さずに、コツコツ生きる。
ただそれだけのことが基本で、好きなことをしています。
住む家があり、食べ物が収穫できて、旅にもいける。
五体は今のところ何不自由なく活動できるし、
五感は研ぎ澄まされて、日々に様々な気を感じる。
それを表現することも出来るし、仲間だっているし、
身に余る彼女もそばにいて、何一つ不足はない。
それでも力仕事をすれば疲れるから、シュワーを飲んで、
風呂に入って、ゆっくり休んで明日のことを考える。
明日はまた、知人の紹介でミュージカルのお手伝いで、
朝から肉体労働になるでしょうが、不思議と体は動きます。
これが意に添わないことであれば、体は動かなくなって、
そんな状態が続けば、辛い病気にもなりそうです。
自然に近しく自由に生きていれば、まずそれが基本で、
その上で、心の通じる仲間と人生を遊びたい。
今の時代は、余計なものが多すぎます。