素人思想が放つ光明について

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昨日紹介した番組に登場の、梅棹さんの話の中に、
素人思想の時代を待ち望むような、言葉があったのを思い出し、
考えている内に、また思うことがあったので書いておきます。
それは専門家思想と素人思想の、何が違うのかと言うことでもあり、
そう簡単なことではなさそうに思われたから、整理したいのです。

梅棹さんが言うように、科学する心を知的好奇心の“業”と捉え、
これを人間の三大欲求に加えると、食欲、性欲、睡眠欲に知欲が加わる。
さらに現代人が様々に織りなす社会的行動が、不可欠の時代からは、
社会的欲求を加える必要を感じで、これを社会欲として加えると、
人間は五つの欲求に従って生きている、と言える気がします。

食欲、性欲、知欲、睡眠欲、社会欲のバランスの上で生きるのが、
人間の姿だと捉えると、専門家というのは構築された社会を持っており、
素人に欠けるのは、社会欲の成果としての地位と体系でしょう。
知の巨人と言えども、過去に築かれた学問体系や地位がなければ、
思想を認められることは難しく、それが新しい思想を難しくしている。

食欲に不満がない人には、新しい食の開発は難しいように、
社会欲に満ち足りた専門家には、新しい思想を生むことは難しい。
だから現状の科学が暗黒へと暴走する中で、社会欲に満たされていない、
学問体系から外れた素人こそ、光明に見えたりするのではないのか?
しかしここには、押さえておくべき大きな問題がありそうなのです。

地位や体系を持たないが故に、既成の価値観に囚われない発想で、
素人思想は、様々な新鮮な引き金を引き続けるわけですが、
その玉がどこへ飛んでいくか、必ずしも見えてはいないのです。
もともと地位や体系としての座標軸がないのですから、行方が知れず、
それ故に、ちまたでキラ星の彗星の如く一瞬光って消えるのです。

問題はそうしたきらめきを、どのように受け止めて認められるかでしょう。
閃きを放つ人が学問に向かえば、多くの場合学問体系に飲まれてしまう。
学問体系を背負った地位を持ちながら、その外側まで受け止める専門家が、
どうしても必要になるのですが、これが相当に困難と思われるのです。
すなわち梅棹さんのような優れた学識者だけが、外側を受け止められる。

梅棹さんのような人が続々と出てくれば、可能性も大きいのでしょうが、
現実はそうはいかず、ほとんどの素人の光明は一瞬輝いて消えていく。
それでも食欲や性欲がコントロールされた如く、知欲や社会欲も、
どうあるべきかが考えられ、議論されて合意を得ることが出来れば、
社会の在り方も大きく変わる可能性がでてくると思うのです。

変わる必要を感じない人は論外として、今までと違う生き方を必要とし、
どう変わればいいかを真剣に考える人なら、素人と専門家が協力することで、
新しい時代の可能性は、一気に大きく膨らむのだろうと思います。
専門家はそのために、自分たちの体系の外側を受け入れる必要があり、
素人の煌めきをいかに受け止められるかが、飛躍の鍵になるのです。

専門家の役割は、地位や体系を守ることではなく、
外側に出て、光明となる素人思想の座標軸を見極め、
そこから新しい体系を、再構築することだと思うのです。