原子力安全委員会の安全とは?

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今回の大地震と大津波、そして原発災害に関して、
至るところで「想定外」と表現されています。
しかし町が全滅した被災地で、全員が助かった小学校では、
避難訓練の時に、指導員の人たちが必ず言っていたことがある。
それは、
「自然災害がどこまで来るかは誰にもわからないから、
 想定値で安心しないで、逃げられるだけ逃げるように!」
と言うものでした。

その結果、避難場所の想定値を超えて襲ってきた津波にも、
辛うじて逃げ切ることが出来、全員が助かっています。
もともと自然災害とはそのようなもので、
たかだか100年、200年の経験値で括れるものではありません。
経験値を元に避難場所を設定しながら、さらにその先に、
努力して逃げる場所があったから、逃げることが出来たのです。
それに比べて、原発を推進する人たちの傲慢さは、
天災にさらなる人災を上塗りする、醜悪なものでした。

政府の原子力安全委員会の班目(まだらめ)春樹委員長は、
2007年の中部電力浜岡原発、運転差し止め訴訟の証人尋問で、
「非常用発電機や制御棒など重要機器が複数同時に機能喪失することまで
 想定していない理由」を問われたときに、
「割り切った考え。すべてを考慮すると設計ができなくなる」
と述べています。
この割り切った結果が、今回の事故に繋がったことを、
昨日の参院予算委員会で認め、謝罪していますが、
想定を低く割り切った理由が、実に呆れたものでした。

原発は、安全性を優先して考慮すると、設計ができなくなる」

これはいったい何を意味するのか?
原発に安全性を追求すれば、設計なんかできない。
すなわち政府の原子力安全委員会は、住民の安全のためではなく、
電力会社が原発を建設しやすくするために、働いていたのです。
現状の多くの基準は、こうした企業擁護のためにあり、
市民を守るためではないのかと、疑わざるを得ないのです。
だからこそ、次々に発表される事態の安全性は疑心暗鬼となり、
テレビの報道が、風評被害をもたらす原因にもなっているのです。

残念ながら今のところ、政府機関は基本的に企業利益優先で、
市民の安全は、様々な市民活動が担っていると言わざるを得ません。
この時代に、大学で応用物理学を学んで市民活動をしていた菅さんが、
総理大臣であるのは、単なる偶然とは思わないのです。
未曾有の危機にある日本に、天の采配のようなものを感じますが、
今のところ、政治家にはそうした気運は感じられません。
この状況は日本の津々浦々を象徴するもので、
南砺市で市長が市民協働を唱えても、役人が動かないのと同じです。

すでに新しい流れは、日本中に始まっているから、
今回の危機に際しても、市民はすぐに自主的に動き出している。
この期に及んで、巨大利権や我欲に執着する人たちは、
相変わらず、日本の人材と技術は優秀だとうそぶいているのですが、
個々の技術や個々人の優秀さは、すでに誰でも知っている。
問題はその優れた人や技術を、どう活かすかの方向性であり、
指導者が悪いと言う前に、個々人の自立した判断が求められるのです。
だからこそすべての人に、生き方が問われているのです。
 

写真は、南相馬市のHPにある海辺の様子ですが、
この人たちが元気な間に、二度とこんな光景は無いかも知れません。