「城端町若杉集落を偲んで」

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1966年に廃村となった、当時城端町の山外れ、
平野部と五箇山を繋ぐ要所であった、集落の歴史本を見つけ、
なにげなく読んだのですが、興味深く面白いものでした。
若杉集落と呼ばれたその場所は、加賀前田藩の時代に番所があり、
その頃からの歴史はわかっているようですが、実際には、
それ以前から、見えない場所に集落はあったようです。

なぜそのような見えないところに、数件の家があったのか?
その事情は何も記録が残っていないようで、わかりませんが、
五箇山の人が平地へ下りる、五箇山街道の「お助け小屋」ができて、
そこに住み着く人が定着すると、合流して暮らし始めたようです。
明治の時代には、番所はなくなって新しい道も開かれますが、
それまでは山の物資を里へ、里の物資を山へ運ぶ歩荷や、
やはり荷物を運ぶ御用牛を養って、生計を立てていたようです。

ほぼ100ページしかない、この冊子本が面白いのは、
明治期と思われる農民の様子が、写真で見られることで、
またその暮らしぶりが、詳細に書かれているのも興味深い。
昔の水車小屋や、5人でひき臼で籾摺りをする様子、
あるいは糸車で糸繰りする人の様子まで、写真があります。
さらには当時の人足(歩荷)が、80~120キロの荷物を担ぎ、
山道を上り下りしていたと知って、驚くしかありません。

それにしても何故、不便に思われる山に多くの人が住んだのか?
この疑問に対しても、昔は生活必需品は山にあったと書いてある。
それはどのようなことかと言えば、
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(1)山村には、年間を通じて尤も大事な薪が充分にあったから。
(2)山村には、毎日雨が降っても濁らないきれいな清水があったから。
(3)山村には、食べられる山菜が充分にあったから。
(4)山村には、里のように台風の被害がなかったから。
(5)山村には、食べられる野鳥や動物が多くいたから。
(6)山村には、昔は年貢や戦争がなかったから。
(7)山村には、屋根の材料になる茅やススキが充分にあったから。
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こうした理由で、早くから人が住み着いていたというのです。

なるほど、水、食料、燃料、家材が豊かにあって、
戦争にも台風にも年貢にも悩まされない、恵まれた環境です。
このおかげで、日本中に餓死者がでた天明の大飢饉でも、
若杉には一人の餓死者も出なかった、と記されていますが、
この天明の大飢饉は、8年間も続いたようだから凄まじいですね。
地震に始まって、大雪、大凶作、旱魃、洪水、疫病、台風と続き、
十年近い長期に渡る、大災難の時期だったと書かれています。

現代社会では、様々なインフラを人工的に維持しているので、
何事もないときは便利だけど、何か一つ災害があれば、
たちまちにして、援助がなければ何も出来ない状態に陥ってしまう。
手に入れた便利さを手放すには、人間が軟弱になっているので、
これからはせめて、自然を大切にする事だけは疎かにしないで欲しい。
そうすれば、自然界の営みによって人間も救われますからね。

読んでみたいと思われた方は、
南砺市城端図書館へお問い合わせください。
http://library.city.nanto.toyama.jp/library_detail.jsp?lc=4