作られた無縁社会

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去年から今年に掛けて、NHKでは無縁社会を特集していました。
それに合わせるようにして、民放や新聞でも無縁社会が取り扱われ、
いつのまにか現代の日本は、無縁社会になってしまったのですが・・・
何だかこの議論には、釈然としないものが含まれています。

たぶんこの言葉が生まれた背景には、一人暮らしの孤独死があって、
誰とも繋がりのない人が増えていることを、無縁社会というのでしょう。
だけどこの50年間に、社会はそのような生き方を求めたのであり、
以前には大切にされていた、地縁や血縁といったものを疎んじてきた、
あるいは学校などでも、縁による繋がりより成果を重視してきたのです。

いわば多くの人が、縁を煩わしいものと考えて排斥しながら、
それに変わるものを、おカネに求めてきたのではないでしょうか?
子育ても介護も社会福祉も、まるで会社経営のようにお金勘定で考え、
いくらおカネがあっても満たされることが無く、合理化を進める。
番組の中でも、人の縁は仕事やおカネばかりではないと言いながら、
そうは言ってもおカネがないと暮らせない!から抜け出せない。

おカネがなくても、食べ物とエネルギーがあれば暮らせますが、
現代社会はそのような生き方の多様性を排除して、何でもお金換算し、
食べ物もエネルギーも、おカネがないと手に入らないと思い込んでいる。
まずはおカネ、先立つものはカネだ!って発想しかありませんから、
どんなエネルギーも食べ物も、どこかで誰かが生産していることを忘れ、
縁でさえも、おカネによる繋がりしか見えなくなっているのでしょう。

人はまず生きるために働くわけですが、必ずしもおカネがなくても、
自分で食物を作る方法はいろいろあるし、100年前には自給が多い。
エネルギーだって100年前には自給が多くて、そのためにこそ、
平地よりも山に入って暮らす人が多く、山里の人口が多かったのです。
それを不便だ、生産性が悪いと言って都会へ出ていったから、
おカネに頼らざるを得ない人を増やし、新しい貧しさが始まった。

そして、こうした議論の時にはいつも微妙に無視されることですが、
無縁社会も人が作ったものであれば、そうでない社会も作れるのであり、
肝心なのは、未来にどんな社会を作っていくかの指針です。
そうすると、誰かに強いリーダーシップを求める人が出てきますが、
そのような一本調子が間違いの基なので、多様性が必要になるのです。

おカネがなければ畑を作る、土地がなければ何か手伝わせてもらう。
そこには必ず何らかの人の縁があるもので、無縁社会などどこにもない。
無縁社会の幻を見て、自分の無策を他人事のように批判するのでなく、
いつも言うことですが、自らがどう生きるかが大切なのです。