新燃岳の噴火etc.

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先日来の寒波で、北陸地方は記録的な大雪となりました。
福井では国道が麻痺したり、新潟では4メートルの積雪など、
人間の文明など、自然の前ではいかにちっぽけかがわかります。
同じ頃、鹿児島と宮崎の県境にある新燃岳で爆発的噴火があり、
今も活発な活動が、継続していると報道されていました。
立ち上る噴煙が三千メートルと聞いても、ピンと来ませんが、
夜空を焦がす火映現象を見ると、火力の凄まじさがわかります。

異常気象と天変地異は、何らかの関係があるのかどうか?
人間活動は、こうした大自然に影響を与えているのかどうか?
いろんな見解はあるようですが、無関係ではないのでしょうし、
さらに大切なのは、世界にいかなる天変地異があろうとも、
僕らはそれぞれの場所で、自然と調和して生きるしかないのです。
自然を大切にしないなら、どんな文明も滅びるしかありません。

自然農の心得の一つに、「持ち出さない、持ち込まない」があり、
これはその場所の生命循環を、大切に育むためなのですが、
同時に別の場所への負荷を、なるべく増やさない注意でもある。
古来から人々は、五感の及ぶ天地の様相によって第六感を働かせ、
五感の及ぶ限りは自らの努力で改善し、第六感に対しては、
畏怖の念を持って、敬いつつも遠ざけてきたと見受けられます。
責任を持って管理できる世界と、できない世界を棲み分けたのです。

ところが現代は、見えないものから無限大の感性を受け取るより、
少しでも実用的な資源に変えて、目に見える利益を上げようとする。
そこ結果、日常的な生活で使っている見栄えのよい商品たちが、
実は世界のどこかで誰かを苦しめ、自然界を破壊していても平気で、
小綺麗な自分が醜い破壊者の一部であるなんて、考えもしません。
それは個々で見れば、微々たるもので影響がなさそうですが、
どんなに小さな市民活動も、やがて大きな意味を持つのと同じで、
少しずつ積もって、大災害をもたらす遠因になるかもしれない。

どこかの宗教の「悔い改めよ」ではないけれど、戒めは同じで、
世界中の多くの思想や宗教は、敬虔質素を奨励しています。
なぜこうした戒めが必要なのかを、考えることは大切で、
僕らは社会のセーフティネットを考えるとき、弱者救済の目線で、
下をすくい上げることばかりに目が行きがちですが、同時に、
包括的に限りある資産を、特定の人にばかり集まらないような、
アッパーネット的な思考と目線が、必要ではないかと思うのです。

新燃岳の噴火も豪雪も、大変な被害をもたらす自然災害ですが、
僕らはこうした災害に対して、手を繋いで助け合うこともできるし、
被害さえなければ、美しい光景として眺めることもできるのです。
美しいものは、生半可な人を寄せ付けない力も秘めているから、
ときには危険で、近寄りがたいものでもあるのでしょうが、
敬虔にして質素な暮らしには、不思議と身近なものでもある。
人間の感性は、受け入れるしかないとき初めて発揮されるので、
そのレベルは低い方が、豊かな感性になるのかも知れないのです。

寸暇を惜しむ拡大生産よりも、生受けた命の時間を大切に味わいたい!
それが普通の豊かな社会になるように、何かお手伝いしたいと思うのです。