「のら犬・のら猫」

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著名な下着デザイナーであったと言う、鴨居羊子さんの作品集で、
「のら犬のボケ」「シッポのはえた天使たち」「のら猫トラトラ」
この三つのエッセイ集を、一冊に収めた復活本を読みました。
初っぱなに連続して書かれている話は、僕が生まれる前の時代で、
まだ街角のあちこちに、のら犬がのら犬として生きられた頃のお話。
僕が幼かった時分にも、僕の町にはまだ繋がれていない犬がいて、
首輪があれば飼い犬、無ければのら犬と見分けるのがあたりまえでした。
つまりそのくらい、繋がれていない犬は多かったのでしょう。

鴨居さんは繰り返し、ペットとしてかわいがられている犬よりも、
自由に生きているのら犬の方が好きだ、と書いていらっしゃる。
僕もその感覚は同じで、どんな生き物であれ飼うことは好きではない。
だけど今の時代に、のら犬が自由に暮らせるような空間は無いし、
まして自由に暮らすのら犬と人間の交流など、皆無になっています。
のら犬の自由さに魅せられながらも、彼らが駆逐されていく様子を見て、
彼女は自身の不自由さを、重ね合わせて感じていたのでしょうか。
人間よりも自由に生きる犬に心を寄せる姿は、とても切ないのですが、
その想いは、彼女の感性の原点にもなっているのでしょう。

「のら犬のボケ」では、実際にたくさんののら犬が登場しますが、
年月を経た「シッポのはえた天使たち」では、のら犬は見えなくなり、
鴨居さんも鼻吉という犬を、自宅で飼うようになっています。
鼻吉はシェパードとコリーのあいのこで、相当大きな犬のようですが、
そこに小さなのら猫が入り込んで、さらに猫が二匹、三匹となり、
彼女はそれを自分の大家族ととらえて、子どもの頃の記憶とも交錯する。
一方では仕事に打ち込んで、それなりの成功もしているのですが、
自らの幼い頃にそうであったような、家族に囲まれて暮らすことなく、
その夢が、犬や猫との暮らしの中で倒錯的に実現していく。

いかに恵まれない境遇にあっても、凛として自らの命を生きる、
そんなのら犬の姿からは、「武士は喰わねど高楊枝」を思い出したり、
したたかに生きる術を身につけた犬や猫に、敬服する気持ちも沸いてくる。
それは僕も同じなのですが、鴨居さんのようには犬の地平にいられない。
自分と大型犬の鼻吉と、小さな猫三匹が一緒に暮らす我が家の様子を、
幼い頃の思い出である、両親と兄弟三人の暮らしになぞらえるあたりなど、
泉鏡花風の怪談にも適いそうな、ある種の怪しげな雰囲気も漂ってくる。
時代と共に失われていく自由にたいしての、怨みのようにも思えるし、
正反対に、自分をとらえる動物的な家族の絆に対する渇望とも思われる。

もともとは三冊の本だったであろうものを、一冊にされているので、
読み応えはあるのですが、気持ちのノリがばらける部分もありました。
中でも三番目の「のら猫トラトラ」は、写真の話しが前面に出てくるので、
ほかの二本とは趣が違うし、犬があまり出てこないのも面白くない。
そうしてみれば、僕はどうやら猫よりも犬の方が好きなようで、
ひも付きでない犬に出会したりすると、ついつい対等な気持ちになる。
野生動物は怖いくせに、野生を失って飼われている犬なんか興味が無くて、
町中に野生の生き物がいなくなったら、海の中で出会って喜んでいる。
なにやらそんなことまで考えてしまう、しみじみと読める一冊でした。
 
 
鴨居羊子さんの「のら猫・のら犬」は、↓こちらから。