民主主義の民意と抑圧

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僕は70年代から一貫して、問題の多い原発建設に反対なのですが、
日本人の多くはそうではなく、政府の方針も原発推進の流れにあります。
最近でも上関原発の建設に対して、僕がいくつか問題点を指摘すると、
答えられない人が決まって言い出すのが、原発推進の民意です。
確かに、国民の選挙によって選ばれた政権が原発推進をしているし、
原発建設に対する反対運動は、違法な妨害行為とし裁判の判決もある。
少なくともこの国の権威権力の意向は、明らかに原発推進ですから、
これに反対する運動は、民意に反する行為だと主張されているのです。

しかしながら、民意とは何かと考えると、やっぱり疑問も感じます。

まず60年代から70年代に掛けては、原子力の平和利用が唱えられ、
新聞テレビをはじめとするマスコミの主張は、ほぼ全て原発推進でした。
そんな時代にもかかわらず、僕がどうしても疑問に思ったのが、
原発が持つ特質としての、専門の管理者に運命を委ねる体質です。
いったん原発の稼働が始まれば、僕らは自らの自律的な生活は喪失し、
ひたすら管理者の言うとおりにするしかない、依存型の社会になる。
これが僕にはとうてい耐えられなかったから、反対したのですが、
当時は市民活動と言えども、反対していたのは圧倒的少数の人でした。

それから30年以上が過ぎて、民意は明らかに変わってきたのです。

民主主義を多数決で考えるなら、原発に対する反対は今でも少数派で、
政府は反対派の疑問に納得できる答えを出せないまま、推進を続けている。
あるいは裁判でさえ、反対派の行動は違法とする判決を出すので、
少数派の人たちは、偽善者面をして民意に反する妨害者と言われます。
それでも30年前とは違い、マスコミでさえ必ずしも原発推進と言えない、
反対する明らかな理由が、封じ込められないまでに大きく顕在化したのです。
事故の可能性は天文学的な確率と言っていたのに、次々に事故は起き、
想定外の地震にも見舞われて、安全神話はすでに悉く意味をなしていない。

それでも多数決で計れば、民意は原発推進ということになるのです。

この民意を維持するために、政府や電力会社は膨大な宣伝費用を使い、
情報公開によっては、やむなく安全でないことを暴露する一方で、
こんどは温暖化防止のために、原発が必要だと言い始める始末です。
そこまで執拗に原発を擁護するのは、利権が絡んでいるからでしょうが、
現地の住民にとっては、とんでもないやっかいな話しに違いないでしょう。
今までの生活が壊される代わりに、おカネがもらえる仕組みですから、
おカネに目がない人は、おカネに目がない権力と組んで民意となり、
地域の自然に根ざした持続的な生活を望む人たちは、排除されてしまう。

民意として少数派が排除される多数決の仕組みは、本当に民主主義なのか?

民主主義が愚衆政治でないために、立憲による人権擁護や生活保障など、
多くの改善がなされてきたことは事実ですが、まだまだ足りないものがある。
それは価値観や生活様式の多様性を認めるものであり、これを実現するには、
掛け替えがないのに失われるものに対する保証を、おカネ換算しないで、
どのように実現するかの、本格的な検討と議論ではないでしょうか?
それが出来ないなら、安易におカネ換算で置き換えるべきではないのであり、
勝手なおカネ換算による保証は、無意味であることの合意が必要でしょう。
そうした発想は、どのような思想概念によるかを明確にする必要もあります。

民主主義は多数者による価値の強要ではなく、常に余白が必要な概念なのです。

多数派のために少数派が犠牲になる社会ではなく、全員が主人であるために、
少数派を握りつぶすのではなく、将来への可能性として大切に守る考え方です。
すると見えてくるのが、多数決で決めた少数者の生活を脅かす決定は不当で、
双方が納得のいく一致に至らない決定は、民主主義的ではないと言うことです。
エスかノーかの暴力的選択ではなく、双方の合意を得た決定だけが、
民主主義による民意であり、権力がそれ以上に力を行使すべきではないのです。
なぜ民主主義が重んじられるかと言えば、抑圧者を作らないためであり、
すべての人が幸福にならなければ、誰も本当の幸福になどなれないのです。

多数者が抑圧者となり、少数者を被抑圧者とするのは、本当の民主主義ではないのです。